世界を見る、日本を見る

明けましておめでとうございます。2018年は、皆さんにとってどのような年となるでしょうか。皆さんも、幸いな日々を過ごしたいと願っておられるでしょう。人は一人で生きているのではありません。私たちも、世界と日本に関心を持つことが大切です。

1年前、米国大統領が就任し、世界中に様々な波紋が広がりました。昨年1年を表す漢字に「北」という字が選ばれ、解決の糸口の無い対立やテロ、破壊や様々な問題が複雑に絡み合っています。これが私たちの住む世界です。

この世界を何とかしようと「世界が合意した目標」があることをご存知ですか。国連が2001年に発展途上国向けに決め、その後、先進国も含めて、2015年新たに「地球規模で持続可能な開発目標」を提唱しました。

そのモットーが唸らせます。「誰一人取り残さない社会を実現する」と。地球全体を持続可能な世界にしていこうと、国連が定め17年がたちます。ところが、人類は、繰り返される戦争と対立と破壊を繰り返しています。

私たちの世界は、自国第一主義が蔓延しています。世界のベストセラーである聖書に、世界が誕生した時に創造主(聖書の語る神)は、「見よ。それは非常に良かった」と語られました。全てのものをお造りになった創造主が、全てをご覧になって非常に良かったと感嘆されたのです。

聖書は宣言します。「神様はあなたを愛しておられる。」社会全体が問題だらけで、どれほど私たちの理想とかけ離れても。

この神様の愛が分かった人は、他の人を愛する人となる。一人ひとりがこの「隣人愛」に生きる時、「誰一人取り残されない」世界は必ず実現するでしょう。

ここに希望があります。この希望をもって、世界に、日本社会に目を向けて共に生きる。私たちのキリスト教会は、共に生きることを目指して、地域社会と共に歩んでいきたい。

ぜひ、教会へ来てください。心よりお待ちしています。

グレース宣教会 代表牧師 藤﨑 秀雄

私は幼い頃から両親に連れられ教会に通っていました。

家族と教会に通う事は楽しみでしたが、自分自身の信仰が無かったので、学生時代になると教会生活が人々と違う事を恥ずかしく思い始めました。

しだいに祈る事も聖書を読む事もせず、就職してからは仕事のストレスや心の空虚を、趣味のサーフィンや喫煙、飲酒などで満たす努力を続けていました。しかし、そのような快楽的な生活では、心は満たされず返って空しさは増す一方でした。

そんな私のために両親と教会の人々はお祈り下さり、教会に通う事をいつも勧めて下さいました。私は耳をふさいでいましたが、両親が病によって体が衰え始め、ようやく人生の目的について深く考えるようになっていました。

ちょうどその頃、親友が深刻な悩みを抱えていたため相談を受けていましたが、自分達では問題を正しく解決する事もできず困り果て、私は思い切って教会の牧師先生に相談してみようと、久しぶりに教会を訪れる事となりました。

今から思うと、離れていた教会を再び訪れようと思った事は神様の不思議な導きでした。牧師先生は友人のために聖書から正しい助言を下さり、私にも創造主である神様について教えて下さいました。

聖書の学びは楽しく、それから毎週、出勤前には教会で朝食を共に頂き、聖書を通して神様の愛の深さを知り涙があふれました。同時に、自己中心で快楽的な生活は神様の前に罪であり、罪が自分自身を苦しめていた事にも気づかされました。

そしてイエス・キリスト様が私の罪からの救い主である事を告白してからは、聖書を読み祈る度に「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」と書かれている通りに、心は平安で満たされ、私の価値観は内面から変化し始めました。教会生活に戻り、新しい家族が与えられた今は、礼拝生活の中で神様の愛を伝える喜びで満たされています。

1549年8月15日、インド・ゴアの宣教監督であったイエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来着。9月、伊集院城で国主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得たことをもって「キリスト教の公式伝来」としている。

ザビエルは1551年1月、京に上って豪商小西隆佐(行長父)らの歓待を受けるが、将軍足利義輝との謁見がかなわず、また戦乱で荒廃した人心に失望し京を去った。

その後、周防国山口に入った。国主大内義隆は南蛮貿易の利を求めることもあって、ザビエルに宣教を許可し、廃寺であった「大道寺」を与えた。(大道寺は1552年、日本で最初にクリスマス礼拝の行われた教会として知られている。)

ザビエルはここで一日2度の説教を行った。滞在2ヵ月の間、500人ほどの日本人を洗礼に導いた。その中には、肥前平戸生れの了西という盲目の琵琶法師もいた。ザビエルは彼に「ロレンソ」という洗礼名を与えた。

この琵琶法師ロレンソ了西は「南蛮宗」の黎明期に、ザビエルの説教を日本人が理解しやすいように伝える貴重な役割を担った。彼の布教活動は高く評価され、了西なくしては、この時期の宣教拡大を語ることはできないとまで言われる。

ザビエルが滞在した頃は、室町時代の末期で、「下剋上」の風潮は極まっていた。1550年、幕府管領の細川晴元の家臣三好長慶が、晴元を追放し畿内に政権を確立した頃である。さらに三好家の重臣であった松永久秀が、大和と河内の国境、信貴山城を根城にして両国を支配下に繰り入れ、そのまま自立した。

松永久秀は南都僧兵、大和神人を味方につけるために、ザビエルが伝えた新興「南蛮宗」を嫌い、これを排除しようと試みた。ところが、高山友照(右近父)ら松永の家臣たちは、逆にこの新しい「南蛮宗」にこそ、下剋上の悪弊を断ち切り、戦国時代を終焉させる法力があるのではないかと考えるようになったのである。

日本滞在の2年目、死期が近づいたのを自覚したザビエルは、後事をトーレスやロレンソ了西に託し、1551年11月15日、再びインドのゴアを目指して豊後府内を出帆した。

学園前グレースチャペル 前川 一武

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