歴史上最大の名場面

  映画には名場面がありますね。感動の場面、スリルあふれる場面、笑える場面などです。作家や演出家などが考え出した印象的な場面です。神(造り主)と人間の真実の歴史が書かれている聖書にも名場面が数多くあります。

  中でも新約聖書の福音書には、救い主キリストと人々の関わりが記されています。キリストは人となられた神であることの証明として人々を愛し、病気を癒し、弱い立場にある人たちを次々に助けました。でも福音書の中で最も衝撃的で避けたくなる場面があります。キリストが十字架にかけられる場面です。その名が広まり人々の心がキリストに向くようになった時、高慢な宗教指導者たちがキリストを排除する行動に出ました。嘘の証言や偽りの裁判で追い詰め、死刑にしたのです。キリストはむち打たれ、広げた両手と重ねた足に大きなくぎが打ち込まれ、頭にはいばらの冠をかぶせられ、無残な姿になりました。十字架の上で「神よ。なぜわたしをお見捨てになるのですか」と叫びます。決して見たい場面ではありません。でもこれこそ聖書を代表する最も大切な場面なのです。キリストの死は、罪深い私たち人間のための身代わりの死だったからです。 

  それと一対をなす代表的な場面があります。それはキリストの死後三日目に起きました。朝早くキリストの墓に来た女性たちが墓を見ると中は空で、その直後によみがえられたキリストに再会する場面です。 死に打ち勝ち、よみがえったキリストは、信じるすべての人に罪からの赦しと永遠の命を与えてくださいます。イースターはキリストがよみがえられたことを祝う時です。キリストは言われました。

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

(ヨハネの福音書11章25節)

グレース宣教会 牧師 今倉 守

 私は血友病です。血友病とは、何かのきっかけで出血した場合に、その出血が止まらなくなるという病気です。そのため子供の頃から入退院を繰り返していました。私はその病気に対する不安や苛立ちから自分自身を精神的に追い詰め、苦しんでいました。

  そんな私の気持ちに変化が起こったのは、当時私の主治医であり、現在の私の妻との出会いでした。彼女は、病気のことを含めたすべてのことを理解してくれました。そんな彼女に対して好意を抱いた私は、結婚を前提とした付き合いを申しでました。その時、彼女は自分がクリスチャンであり、結婚するかどうかは神様の導きによると告げました。そして私に根気良く神様についての話しをしてくれました。私は、徐々に神様について理解を深めていくことができました。

  しかし、彼女がクリスチャンであることを尊重することはできても、自分自身がクリスチャンになることには抵抗がありました。そんな或る日、神様は彼女を通じて、私に一冊の聖書を与え、そしてその聖書の一節を示してくださいました。その一節とは、

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲人に生まれついたのは、だれが罪をおかしたからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪をおかしたのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」でした。

私は、盲人と自分を重ね合わせ気持ちが軽くなるのを感じました。そして、自分に現されようとしている神様のわざが何であるかを知るために、教会を訪れました。教会に通いだした当初は、彼女を通して神様を見ていましたが、いつしか彼女の存在とは関係なく神様を見ていました。その時、本当に自分を救ってくれるのは彼女ではなく神様であることに気づいた私は、神様を信じ受け入れることにより救われました。今、私は自分が血友病であることを素直に受け入れることができるようになりました。そして、私自身が神様の栄光を証しする者としてその働きのために用いられるよう日々祈り求めています。

 1563年、河内国・飯盛山城におけるイエズス会修道士・ロレンソ了斎(琵琶法師・了西)の熱い説教は、三好長慶の幕閣73名を洗礼に導いた。戦乱にあけくれる国人に、大きな感銘を与えた。ロレンソの説教には、下剋上の泥沼から救いを求める武将たちに、新しい時代の予感と希望を与える力があった。イルマン(修道士)・ロレンソの働きが、畿内キリシタンに大きな勇気を与え、この時代の宣教の隆盛をもたらす大きな要因となった。またたく間に、摂津、河内、堺では、キリシタンの町、村が続々と生まれた。 この年、織田信長に関する貴重な史料『日本史』を書き残したポルトガル人宣教師、ルイス・フロイス(31歳)が、長崎に上陸している。まさしく織田信長の時代である。すなわち、「天下布武」の大義によって、それまでの社会全体の枠組みや価値観を変革しようと試みた「近代主義者」信長と、イエズス会宣教師たちの「近代ヨーロッパ思考」がうまく噛み合って、しだいに天下統合に向かう時代である。新しい支配者は、新しい「祈り」を求める。信長と宣教師の面談は、公式な記録だけでも31回に及んでいる。また、信長の時代は、キリシタン側から言えば爆発的な宣教拡大の時代でもあった。 献身の福者、高山ジュスト右近も、織田信長の時代の人である。1568年、織田信長は足利義昭を奉じて京に入り、畿内の平定を急いだ。高山友照・右近父子も大和国・沢城にあったが、新たに摂津守護に任ぜられた和田惟政の家臣団に組み込まれ、高槻城下に移り住んだ。ところが、和田家臣団はまとまりが弱く、内紛が続いた。和田惟政の家督を継いだ若い惟長には指導力や人望がなく、挙句に、力のある高山親子の排除を画策するのである。 1573年、信長が足利義昭を京から追放して室町幕府が滅亡した年、ついに高山父子と和田惟長の対立は刃傷事件となり、右近は首を半分切り込まれた。かなりの深手で命も危ぶまれたが、奇跡的に回復。この事件以降、右近の信仰はさらに深まったと言われる。この事件があって、信長は配下の重臣、荒木村重に摂津一円の支配権を認め、そして和田家に代わり、新たに高山父子を高槻城主に任じたのである。右近21歳、死地はさまよったものの、信仰によって、すべては「益となりぬ」と。 領内にあって、高山右近は信仰に基づく施策を大胆に行った。その中でもフロイスが驚きをもってローマに報告した行いがある。「路傍で行き倒れた病身・浮浪の民を保護するばかりでなく、死者とならば、キリスト教会の司式に従って、手厚い葬送を右近自らが行っている。」これをフロイスは「慈悲の業」として、その感激をローマに伝えた。むろん、多くの領民は、右近の心情と信仰に深く感じ入り、次々と改宗者となっていった。 1578年、突然、荒木村重が信長に反旗をひるがえした。26歳の右近の混乱と苦悩は大きかった。父ダリオ友照をはじめ多くの家臣は、あくまでも荒木村重に与力し、信長に徹底抗戦すべしと主張する。しかし、なにか違う…。右近は進むべき道の助言を、尊崇するオルガンティノ神父に求めた。やがて二人が祈るうち、信長に降る道が神父から示された。それは、家族や家臣、領民のすべてを置いて高槻城を去ること。しかし、右近はこの示された信仰の道を選んだ…。右近は一人高槻城を出て、信長のもとに降伏したのである。 だが、死地に献身する右近の姿が信長の心をうったのか、すぐさま織田家臣下として高槻城主に任ぜられ、この窮地を乗り切る。再び高山家一門は、「すべてを感謝しつつ」和解し団結した。 この頃のキリシタン信者は、京で25,000人、高槻で18,000人、河内村6,000人と、ルイス・フロイスは『イエズス会日本年鑑』で報告している。

学園前グレースチャペル 前川一武

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