金牧師がほぼ毎日送って下さる「毎日デボ」です。月初めに一日分ご紹介します。

毎日デボ ローマ10:17『信仰の始まり』

17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。 (ローマ10:17)

  今日から信仰について学んでいきましょう。全ての人はそれぞれの信仰を持っています。宗教はない人に対しては信念とも言いますが、自分が信じて頼るものはその人の信仰となります。ところが、その信仰が何でも良いわけではありません。正しい信仰、即ち、自分の目で正しいという信仰ではなく、私たちの創造主の判断基準から正しいとされる信仰を持つことが大切です。正しい信仰は力があります。癒しの力、回復の力、祝福の力があります。神様がそれを許しておられるからです。信仰は、私たちの到底できないことをもできるようにします。信仰は奇跡を生み出すのです。信仰は、希望とつながっています。信仰はその希望を実現させていく力です(へブル11:1)。正しい信仰は、私たちを正しい人生へと導きます。正しい生き方を教えます。信仰は私たちの行いや生き方が決して無駄になることがないようにガイドします。信仰は、私たちが神の道から逸れたり、離れたりすることがないように守ります。

  ですから、もし、信仰がなかったら私たちは何もまともにできない存在です。信仰がなかったら私たちは正しい生き方ができなくなります。神の道から逸れてしまいます。堕落の道、罪に道を歩んでしまいます。滅びの生き方をします。信仰がなかったら希望もなくなります。ただ、絶望と失望、または自分の欲望と野望に生きるしかありません。信仰がないと、神様を喜ばすことができません。『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 (へブル11:6)』と教えている通りです。

  では、正しい信仰を持つためにはどうすれば良いでしょうか。その為には上記で記されているように、信仰はキリストのみことばを先ず、聞く事から始まるということです。即ち、聖書のみことば、その中で特にキリストについて教えている福音のみことを聞くことから信仰は与えられるということです。信仰は自分から始まるのではありません。神様が与えて、聞かせて下さる聖書のみことば、キリストイエス様に関するみことばを聞くことから正しい信仰が生れます。ですから、いくら聖書を学ぶとしてもキリスト・イエス様について正しく学ばなかったら信仰は中々生まれにくい、持ちにくいところがあります。また、教会に来るから信仰が持てるのでもありません。洗礼を受けたら信仰が持てるのでもありません。お祈りするから信仰を持てるのでもありません。イエス様に関する聖書のみことばの解き明かしを真実に、真摯に、正しい良心で聞くことによって信仰は芽生えてきます。実に、聖書の話は全てキリストに向かっています。イスラエルの歴史、預言者の話、詩篇、訓戒、黙示など全てがキリスト・イエス様に向かっているのです。

  それを正しい姿勢でみことばを聞き、学ぶことによって正しい信仰を持ち始めることができます。それは、一度、二度で持てるものではありません。また、何回か聞けば十分分かって完成されるものでもありません。それは生涯に渡って聞き、学ぶべきものです。信仰は、生涯に渡って成長し、深まり、強くなっていくからです。信仰は、読むことより、聞くことから始まることを心に刻んで下さい。だから、礼拝や祈祷会、また聖会に出てみことばを聞くことが大切です。良い、正しい信仰を持つよう心から主のみことばを慕い求めて励んでいきましょう。アーメン。

 

毎日デボ IIテモテ3:15-17『信仰の成長』

15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。(2テモテ3:15-17)』

  信仰は、神のみことばである聖書の教えを聞くことによって始まることを学びました。特に、聖書が示しているキリストについて学ぶことが信仰成長に大切です。単に神を信じるだけでは信仰は成長しません。必ず、みことばの学び、黙想、実践が必要です。使徒パウロは主にあって産んだ弟子テモテに聖書のみことばの学びの大切さは改めて教えました。テモテは、パウロに出会う前から祖母ロイスと母ユニケの信仰によって敬虔に育てられてきました(IIテモテ1:5)。彼の祖母と母は純粋で敬虔な信仰者であり、素晴らしい信仰をもって神と教会に仕える人たちでした。テモテは、その祖母と母の下で純粋な信仰者として成長することができました。

  ところが、テモテには3つほどの弱さがありました。一つは体が弱いこと(Iテモテ5:23)と若い時に教会の責任を任されて年上の人からリーダシップにおいて無視されていたこと(Iテモテ4:12)、そして大分小心なところがあったことです(IIテモテ2:1)。パウロがテモテにあった時、テモテは若くて本当に純真な信仰を持っていました。しかし、同時に彼の性格は臆病のところもありました(IIテモテ1:7)。人のことばに振り回され、どうしても人のことばが気になって時には落ち込んでしまう時もありました。パウロは、彼の主に対するその純粋な信仰を見て彼を自分の弟子として育て、教会を委ねていきました。彼は、神のみことばによって確かに強くなり、成長していきました。

  いよいよパウロは、彼に教会を託して別の場所へと宣教の働きの為に移って行きました。しかし、パウロはどうしてもテモテのことが心配でした。小心で少し臆病なところがあるテモテの為にパウロは夜昼主に祈りをささげていました(IIテモテ1:3)。そして、そのテモテを強くし、励ます為にこの手紙を書き送りました。この手紙には、特に、テモテが神のみことばに続けて邁進するよう励ましています(Iテモテ4:16)。これは人が成長し、神に祝福される為にもっとも必要で欠かせないことです。聖書の全ての教えは、神の霊感によるものですから、私たちを教え、戒め、間違ったことを矯正し、義の道へと導いて下さいます。それは神を信じ、キリストにある者全てを、良い働きの為に十分に整えさせてくださるのです。

  ですから、神のみことばを礼拝、他の色んな集会、そして様々な学びで学ぶことは、自分の人生がおくびょうにならず、力と愛と慎みあるものとなる為に絶対的に必要です。みことばを慕い求めて学ぶ人は信仰が正しく純粋に成長します。敬虔なクリスチャンとなります。(もちろん、学んだみことばを実行することも必要ですが。)あなたは、主のみことばを慕い求めて学んでいますか。あなたにとって主のみことばの価値は金銀にまさっていますか。主のみことばを積極的に学びましょう。それによってあなたはますます強く深い信仰を持つことができます。アーメン。

 

毎日デボ へブル11:6『神に喜ばれる信仰』

  『6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(6節)

  今、私たちは信仰について学んでいます。信仰は、キリストについての神のみことばを良く聞く、即ち、良く学ぶことから始まることを前回学びました。また、信仰は聖書のみことばを通して更に成長し、強められていくことをも学びました。この信仰は、救いを左右するほど大変重要な問題です。救いだけでなく、私たちの人生の過去、現在、未来の全てを左右するほど大変重要です。へブル人への手紙では、信仰がなくては神に喜ばれることができないとはっきりと語っています。私たちは皆信仰の弱い、薄い、勝手な存在であることを自覚する必要があります。さもないと、自分の今の信仰に自己満足し、中々成長し、成熟することができないからです。そのような信仰は危険性が伴います(へブル5:11-6:2)。

  私たちは、信仰の重大性を認識しつつ、謙遜に自分の信仰のなさを認めつつ、信仰が強く深くなるよう努めていくべきです。信仰は、先ず、神様の存在を信じることだと著者は教えています。神様がおられることをはっきりと確信を持つことです。そこに疑いがあるならば神様に喜ばれることができません。存在しない者を信じる必要はありません。頼っても無駄です。それはおかしいことです。しかし、存在する者を信じず、否定することは大変失礼なことです。しかし、その者が私たちの造り主であるならば、なおのこと、そのお方を否定することは罪となり、決して喜ばれることにはなりません。この世でも私たちは著作権を法律で定め大事にしています。なのに、私たちの造り主を信じないことは創造者の著作権を否定する以上の大問題となります。被造物として私たちが神様の存在を否定せず、また、創造主の御姿を偶像の姿に変えず、信じることは当然のことであり、主はそれを喜んで下さいます。

  また、信仰は、神様に近づき、神様を求める時、報いて下さるお方であることを信じることだと教えています。これは父なる神と御子なるイエス・キリストと聖霊を信じることがいかに実質的ことなのかを教えています。三位一体の神様を信じることはけっして理想郷の話や観念の世界の話ではありません。生きておられる神様が実際、報いて下さると語っています。応答すると約束しておられるのです。存在しない者からは応答も報いもありません。あるのは虚しい響きだけです。しかし、生きておられる神様は、私たちが神の御前に出て礼拝し、みことばを聞き、神を信頼して祈り求めるならばそれに応答し、報いて下さると約束しておられるのです。もちろん、求めるとは、『神を求める』ことからです。自分の必要だけを求める前に神様ご自身を知る為に神を求めることから始めなければなりません。というのは、神を求めない者はたとい祈りが答えられたとしても神様を正しく知ることができないからです。

  創造主を信じ、恐れ、どこに行っても主を認めましょう。主を求め、主に求める時、主が必ず報いて下さるお方であることを信頼しましょう。主は、私たちを喜び、絶対報いて下さいます。私たちは既に過去でなされた主の創造のみわざを認め、現在見ている創造のみわざを認識し、未来に行われる創造のみわざを絶対期待すべきです。この信仰を持てるよう主を求めていきましょう。アーメン。

 

毎日デボ マルコ4:35-41『恐れず信じる信仰』

40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 (マルコ4:40)

  私たちは恐れ多い者です。心配も毎日あります。思い煩い、悩みは絶えません。自分の健康や親、子どもの健康と安全を心配します。子どもたちの勉強や進路・進学・就職を心配します。子どもの学費をどう払ったら良いのか心配します。子どもたちの結婚をも心配します。運転の時には事故に巻き込まれないか心配します。今の仕事がうまくいくか心配し、恐れてしまいます。家のローンの問題で恐れ、心配します。人との付き合いがうまくいくか恐れます。上司や同僚との関係がうまくいかないことに恐れてしまいます。地震が行ったらどうしようと恐れます。戦争が起こったらどうしようと心配します。携帯の事で色々と悩んでしまいます。毎日悩み、心配し、恐れます。

  特に、事件や事故に会うとなおのことです。目の前に起こることで右往左往します。戸惑います。気が気でなく、心の平安を失い、恐れが襲ってきます。あたらこちら電話をし、メールをするけど落ち着きを失います。アタフタします。どしっとかまえて次はどうしたら良いのか正しく冷静に考えることができません。特に、霊的にはもっとひどいです。手に負えることなのに恐れてしまいます。手に負えないとパニックを起こしてしまいます。自信がないのも問題ですが、自分は大丈夫と自信満々にいるのも大きな問題です。

  その私たちに対して神様は、恐れるなと励まして下さっておられます。恐れるなという言葉だけ365回聖書に出て来るそうです。主は、毎日心配する私たちに毎日「心配するな。恐れるな。」と、語っておられるのです。なぜなら、全知全能の神様は私たちのことの皆御存知であり、私たちを助けて下さるからです。その神様が私たちの共にいてくださってずっと助けて下さいます。なのに、私たちはいざという時には、それを忘れて心配し、恐れて、右往左往してしまいます。神様を信頼せず、自分で何とかしようとします。

  今、弟子たちがガリラヤ湖で、夜、イエス様と共に船に乗っています。そこに激しい突風が吹いて来て彼らが乗っていた船はそれに悩まされるようになりました。その時、丁度イエス様は寝ておられました。弟子たちは一日の疲れで寝ておられるイエス様にお手数をかけまいと思ったのか必死に漕いで何とか自分たちで乗り越えようとしましたが、失敗し、水に溺れて死んでしまうと恐れてしまいました。そして、最後、イエス様を起こして助けを求めました。そこでイエス様は起き上がり、風をしかりつけ、湖を静まらせて、弟子たちを助けて下さいました。そして、弟子たちがイエス様と共にいるのにもかかわらず、怖がって、信仰をなくしていることを指摘して下さいました。

  これが私たちの毎日の姿ではないでしょうか。私たちは主を信じているつもりでも、主が共にいらっしゃることを知っていても現実の問題にぶつかってはアタフタし、右往左往しているのではないでしょうか。怖がって何もできずにその問題の嵐の中でただ悩まされているのではないでしょうか。しかし、主を呼び求めましょう。今の嵐から脱出できるよう、主を求めましょう。共にいて助けて下さる主を信頼しましょう。すると、主が必ず、助け、私たちをその問題から脱出させてくださいます。平安を与えて下さいます。そんなに怖がらなくてもよいのです。全能者が共におられるんだから。アーメン。

 

毎日デボ マタイ9:18-26『癒される信仰』

  皆さんは、日本に住みながら他の国の人々より幸せだと感じていますか。日本は他の国より経済的に豊かで、一人当たりGDPも貧しい国に比べて何倍も大きいから幸せも何倍も満喫しているでしょうか。体の病はもちろん、心の病もはるかに少ないでしょうか。苦しみと悩みは他の国の人々に比べて少ない方でしょうか。あるいは無くなっているでしょうか。皆、応えは、NO,だと言うでしょう。お金持ちの国になったからと言って苦しみや悩みがなくなった訳ではありません。病気が少なくなったり無くなったりした訳ではありません。皆が平和で、傷つけることも傷つけられることもない国になった訳ではありません。依然として病気は蔓延っており、人々は病や悩みで苦しんでいます。痛みの中で病んでいます。皆、昔も今も変わらず癒しが必要です。常に、毎日必要です。

  そのためにはイエス様に出会わなければなりません。イエス様に出会う人は心も体も癒されます。たましいは更に癒されます。いつかは死ぬ私たちの体ですから、肉体は毎回癒されるとは限りませんが、私たちの心とたましいは必ず癒されます。その為には、もう一度言いますが、『主イエス様に出会う信仰』が必要です。イエス様に出会う人は必ず癒されます。イエス様に出会ったのに癒されないたましいは一人もいません。なぜなら、主は主を呼び求める者を必ず救って下さると約束しておられるからです(ヨエル2:32、ローマ10:13)。神様は、砕かれた、悔いた心を蔑すまれず、あわれんで下さり、癒して下さるお方です(詩篇51:17)。ダビデは、主に出会い、主が彼のたましいの奥底まで豊かにして下さることを経験しました(詩篇23篇)。

  今、会堂管理者がイエス様の所に来てイエス様に出会い、死にかけている12歳の娘を癒して下さるようお願いしました。彼はイエス様が来られると必ずできるという信仰を持っていました。そこでイエス様は彼の家に向かいました。ところが、道中で一つのハプニングがありました。一一刻も早く急がんとダメなのに、邪魔が入ったのです。あいにくも12年間の長血を患っていた女がイエス様に癒してもらいたいと思って主の着物のふさに触り、実際治ってもらいました。しかし、これはイエス様が別に彼女に語ったり、触ったりしたわけではなかったから、イエス様は立ち止まって誰が主を触ったかを探し、確認しました。そのため、時間はどんどん過ぎてしまい、なんとその間、娘はとうとう息を引き取ってしまいました。父親にしてみればこの女のせいで娘が死んでしまったと悔やんでもおかしくなかったでしょう。実際、彼の心にはそのような思いもあったかも知れません。しかし、主は、死んだ娘まで生き返らせて下さり、父親とその家族の信仰を更に確かなものとして下さいました。

  イエス様は癒し主です。私たちの罪を赦すだけでなく、私たちの体、特に、心の病、たましいの病を完全に癒せるお方です。会堂管理者の父親のように、長血を患った女のように主の御前に出て信仰をもって祈り求めましょう。主に出会いましょう。そうすれば、主がどんな状況であっても必ず、癒して下さる素晴らしい癒しを経験することになります。『あなたの信仰があなたを直したのです』(22節)。アーメン。

 

毎日デボ マタイ9:27-31『本当に信じてる?』

  会堂管理者の12歳の娘と12年間長血を患っていた婦人を直したイエス様はそこを出て道を歩いておられました。そこに二人の盲人がイエス様が通っておられることを聞き、大声で叫んで主のあわれみに訴え出て癒しを求めました。しかし、イエス様はすぐに立ち止まって彼らをその道端で癒してくださいませでした。主は、ある人の家に入るまで何もしませんでした。すると、その盲人たちは諦めず、主の後を追ってその家までついて来ました。そして、もう一度主のあわれみを求めました。すると、イエス様は彼らに、「わたしにそんなことができると信じるのか」とわざと聞かれました。彼らは、異口同音に、『そうです。主よ。』とはっきりと返事をしました。そこで、イエス様は彼らの目に触って、『あなたがたの信仰の通りになれ!』と命じられました。すると、彼らの目がたちまち開け、はっきりと見えるようになりました!

   これは驚くべき奇跡です。今日私たちはこのような経験ができるでしょうか。このような体験ができればもっと信仰が深まるような気がしませんか。私たちはこの出来事から大きく3つの信仰の姿を学ぶことができます。一つ目は、イエス様の人格に訴えたことです。彼らは、イエス様に、『私たちの目を癒して下さい。』と、言ったのではなく、『私たちをあわれんでください。』と叫びました。これは、神様のご性質に訴える祈りです。詩篇の著者たちや多くの信仰の先人たちを見ると、神様のご性質に訴える祈りがよくあります。神様は、慈しみ深くあわれみ豊かなお方です。私たちが消え失せなかったのは神様のあわれみの恵みによることほか何もありません(哀歌3:22)。イエス様は、彼らのその訴えを退きませんでした。

二つ目は、この盲人たちの諦めない信仰の姿勢です。彼らは道端でイエス様に癒しを求めましたが、無視されるように見えました。イエス様は、何も答えず、そのまままっすぐにある人の家に入ってしまったのです。しかし、彼らは(たぶん)誰かに支えながら必死に、諦めず、イエス様の後について行きました。そして、イエス様が人の家に入られた時、何とかお願いしてその人の家にまで入り、イエス様の許に助けを求めました。イエス様は、そんな彼を無視せず、受け入れて下さいました。彼らは、とうとうイエス様と2対1で対面することができました。

最後に、彼らはイエス様なら必ず自分たちをあわれみ、癒せると確信していました。彼らは揺れ動く信仰や二心の信仰ではなく、必ず出来るという確信に満ちた信仰を持っていました。彼らのイエス様に対する信頼は絶対的なものでした。そんな彼らにイエス様は、はっきりと、『あなたの信仰の通りになれ!』と、宣言されました。もし、彼らの信仰がまだまだったならばきっと癒されず盲人のままだったでしょう。しかし、彼らは彼らの信仰の通りに癒される経験をしました。これが信仰の力です!

  私たちにも、主を信頼する絶対的な信仰が必要です。その為に普段からの主との交わり、みことばの学びとデボ、そして、祈りと信仰が必要です。信仰は、信仰によって更に成長し、強くなっていきます。主のご性質に訴え、諦めず、絶対的信頼をもって信仰を更に養いましょう。私たちもその信仰によって奇跡的な癒しを体験することができます。アーメン。

 

毎日デボ マタイ11:1-6『つまずかない信仰』

3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」 4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。 5 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。 6 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」 (マタイ11:3-6)』

  私たちはよくつまずく者です。人のことばにつまずき、人の行動につまずきます。強く見えても、あるいは強くふるまってもちょっとしたことでつまずく時があります。パウロも『立っていると思う者は、通れないように気をつけなさい』と既に警告しています(Iコリント10:12)。また、箴言の著者も、『12 期待が長びくと心は病む。 望みがかなうことは、いのちの木である。 (箴言13:12)』と、私たちの本質をずばりと指摘しています。

  私も自分は大丈夫だと調子良い時は思っていてもその時にちょっとしたことでつまずき、こけてしまう時がよくあります。人の一言でつまずいてしまう自分を見ながら『あ、なんて自分はまだまだ弱く、足りない者なんだ。』とつくづく感じます。更に、そのつまずきを人のせいにして恨んだり、憎んだりします。それはまた別の罪を生み出してしまいます。

  ところが、私たちは神様に対してもよくつまずく時があります。私たちは本当に自己中心的な者ですから、自分の祈りの思う通りにならないと神様に対して、神様のみことばに対して疑い、つまずいてしまいます。信じても無駄、祈っても無駄、もう無理だと思ってしまい、不信仰になってしまいます。主に対してつまずいてしまうのです。

  今、預言者であり、主の道を備えに来たバプテスマヨハネもそのような危機状況に陥っています。彼は、自分の活動の初期頃から聖霊の導きにより、イエス様の事をメシヤだと認識していました(ヨハネ1:29-34)。ところが、自分が牢屋に悔しくも入れられていても全くイエス様から助けようとする気配すらなく、むしろ命がいつ落とされるか分からない状況に会った時、彼のイエス様への信頼と信仰が揺らぎ始めました。イエス様が助けて下さるという期待が裏切られたような感じでした。それで彼は、イエス様の所に自分の弟子たちを送り、この世においでになるはずのメシヤがイエス様であるかをもう一度確認しました。イエス様は、イザヤ35:3-5のみことばの引用を通して彼の質問に答えて下さいました。そしてヨハネはこのみことばを持って安心し、自分の厳しい状況を受け入れ、殉教の道を全うしました。

  私たちはどうでしょうか。自分の思う通りにならなかったら信仰を捨てますか。信じることや期待することを止めますか。あるいは、みことばをもって主のみこころを知り、主を信頼しつづけますか。主は、私たちの思う通りでなくても必ず、私たちに答え、私たちを義の道、祝福の道へと導き入れて下さいます。私たちの願いと期待がこの世で報われないかも知れません。しかし、それでも主のみこころをさぐり、主に期待して主に信頼して歩む者は幸いです。その人は決してつまずくことがありません。つまずいても必ず、立ち直ることができます。主にあってです。アーメン。

 

毎日デボ マタイ14:22-33『パニック①』

  私たちは今信仰について学んでいます。信仰は、神様を信じることです。神様を信頼することです。神様を信じるから恐れません。神様を信じるから揺れません。神様を信じるから失望しません。神様を頼るからくじけません。神様を信頼するから長く落ち込んだりしません。神様を信頼するから希望を持つのです。忍耐ができるのです。なぜなら、神様は私たちがご自身を信頼し、頼り、信じる事に対して失望させないからです(ローマ9:33)。神様は、私たちが不幸な人生になることを決して望んでおられません。むしろ、平安の中で希望と将来を与えて下さいます(エレミヤ29:11)。どんな試練や苦難が来ても私たちが圧倒的な勝利者であることは変わりありません(ローマ8:37)。

  ところが、実際私たちの現実はどうでしょうか。イエス様が約束した豊かな人生を歩んでいるでしょうか(ヨハネ10:10)。私たちは試練が来るとすぐに恐れてしまいます。まだ起きてもないことまで心配します。右往左往してどうしたら良いか分からずパニックになります。現実の厳しい状況に先が真っ暗です。未来なんか存在しません。不安だらけです。何でこんなことになるやと不信仰になります。諦める時も多くあります。自暴自棄となって現実逃避となります。または、ただ時間をつぶしながら人生を浪費してしまいます。一日一日生きるだけで精一杯の人生です。全然前に進むことができません。そこに更なる試練が来ると、圧倒的な勝利者ところか、圧倒的な敗北者の人生となってしまいます。しかし、私たちはその試練を成長の機会として用いる信仰が必要です。信仰によってチャレンジするのです。

  今、弟子たちがそのような状況に陥っていました。弟子たちはまたもやガリラヤの湖で向かい風のため、船は前に進まず、悩まされていました(24節)。船が向かい風のためにいくら頑張っても目的地まで中々行くことができません。時は、夜中の3時です。早く渡って行って寝たいです。休みたいところです。でも、船はちっとも前に進みません。人生の船がそうです。前に進みたいのに、全然道が開かれません。仕事の道が、勉強の道が、結婚の道が、人間関係の改善の道が開かれず、足踏み状態で中々前に進むことができません。しかも、それらに悩まされて人生の時間も真夜中3時です。早く解決したいのに。早く問題を解決して心も体も休みたい。平安になりたい。安らぎたい。でも状況はちっとも良くならない。それが人生です。

  でも、それに重ねてあいにくも更なる災いが起こります。すると完全にパニック状態になります。今、弟子たちがそうです。彼らはただでさえしんどく船がどうなるか怖いのに、海のように広く、真っ暗の湖の上を何か自分たちの方に歩いて来る物体を見ました。彼らはぞっとし、幽霊だと叫び、騒ぎ始めました。パニック状態です(26)あなたはどうでしょうか。私はしょっちゅうパニック状態を起こします。本当に怖いのです。恐れて、心配して、心が落ち込んでしまうのです。

  しかし、この時、私たちにはイエス様がおられることをもう一度確信しましょう。そして、安心しましょう。主が、すぐに弟子たちに『わたしだ』と、語られたように、私たちにもすぐに語って下さいます。『落ち着いて。わたししだ。しっかりしなさい。恐れることはない』という主の声を聞きましょう(28-29節)。そして、安心してましょう。安心して自分のやるべきことに取り組みましょう。少しずつ前進することができます。アーメン。

 

毎日デボ マタイ14:22-33『チャレンジ②』

  昨日に続いて試練に耐えるだけでなく、勝利する信仰について学んでいきましょう。試練が来ると、私たちははじめは何とか耐えますが、時間が経つにつれてだんだんと耐え切れなくなります。途中で諦めたり、自暴自棄になったりして「もういい」と言って放り投げてしまいます。続けて信仰を働かせるのは困難です。その試練と苦難また誘惑のために信仰は薄れていきます。今、弟子たちはイエス様がいない場面で乗っていた船が向かい風で前に進むことができず、悩まされています。船は揺れ動き、下手すると転覆してしまいそうです。荒波の湖は海より怖いです。何年か前にイスラエルのガリラヤ湖に行って3日間泊まりましたが、夕方からは陸地と大きな湖の温度差で激しく風が吹いていたのを経験しましたが、夜に下手に船を出してはならないことです。

  弟子たちが乗った船は最初は静かな気候で守られていました。天気予報の無い時代ですからまさか途中でこうなるとは予想もしなかったことでしょう。そこに更なる恐れが彼らを襲って来ました。いくらまことの神様を信じているイスラエルの民と言えども、周りの国々の宗教は偶像だらけで何らかの形でその影響を少なからず受けていました。というのは、そんなはずがないのに、彼らは荒波の湖の上を何かが歩いて来るのを見て、『幽霊』だと怖がって叫んだのです。聖書は、おばけや幽霊が現れて人を脅かすようなことは記録していません。しかも死んだ人の霊が幽霊やおばけとなって人の命を脅かすという考えは異邦人の宗教で見られるものです。弟子たちは、湖の上を歩いて来られるイエス様の姿を見て幽霊と思ったのです。

  しかし、イエス様は、彼らに正しい情報を与えて下さいました。幽霊ではなく、イエス様であることを教えたのです。イエス様だから恐れることはないと、励まして下さったのです。暗闇の中で私に近づいて下さるお方。試練の荒波の中で私に近づいて下さるお方。そのお方は、弟子たちにそうされたように、私たちを助け、救って下さるのです。ところが、その為には二つのことが我々に必要です。一つは、その中でも主に信頼して怖がらないことです。主を信頼することはもう怖がらないことです。主を絶対に信頼することです。もう一つは、ペテロのようにチャレンジすることです。ペテロは、他の弟子たちと違って、湖の上を歩いて来られる方がイエス様ならば、自分にも命じて湖の上を歩いて主の御許に近づけるよう頼みました。これは大きなチャレンジです。

  他の弟子たちには、今そなんことを頼む場合ではなかったでしょう。早く助けてほしいし、落ち着きたいところです。しかし、ペテロは、その試練の中でチャレンジしました。主に助けを求めました。主からではなく、自分からも主に近づきたかったのです。そのペテロを、お前には無理とか、俺が行くからそこで待ちなさいと言いませんでした。彼のチャレンジを受け入れて下さいました。そして、彼はその嵐の中を、暗闇の中を、なんと水の上を歩く人類最初の人となりました。決してマジックでもフェイクでもありませんでした。実際の体験でした。たとえその後、また風邪を見て、怖くなり、それで溺れてしまいましたが(29-30節)。しかし、ペテロは大きな信仰の体験しました!

  私たちも試練の時に怖がるのではなく、更なるチャレンジをするのです。逃げたりする必要はありません。無茶のように思えるところがあるかも知れませんが、失望せず、主を信頼して、確信をもって一歩を踏み出してみるのです。主を信頼して踏み出すところに奇跡が起こります。奇跡を体験します。驚くべき体験です。でも、風と波は続きます。その時が重要です。続けて主を信頼することです。主のみことばの声を聞いて、主に信頼して自分の人生の一歩を前に踏み出しましょう。主に近づくことであれば、その一歩は奇跡の一歩となります。アーメン。

 

毎日デボ マタイ15:21-28『立派な信仰』

  信仰は、望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものです(へブル11:1)。即ち、神様に対する信仰は、私たちが望んで描いていることが泡に消えず、本当に実現できるように保証しているものです。自分の祈り願いが、信仰によってはっきりと実現可能となります。ですから、信仰はとても大事です。良い、正しい、そして主から認められる立派な信仰は、私たちを癒し、人生を変えてくれます。

私たちはどんな信仰を持っているでしょうか。自分の信仰について自信をもって言える人はいないでしょう。では、その信仰が立派な信仰になる為にはどうすればよいでしょう。今日の本文は、異邦人であるカナン人の婦人を通して立派な信仰とは何かを教えている良い実例です。イエス様は、ツロとシドンの地方に立ち退かれました。今のシリアに当たる地域であり、昔からイスラエルと密接な関係を結んで来た地方です。預言者エリヤが一度アハブ王の迫害を避けて行った所がこのシドンであり、ここで一人の息子を持つやもめを神様はエリヤを通して生かし、同時にやもめを通してエリヤを養った所がこの地方です(I列王記17章)。エリヤが立ち退かれて行った所で一人のやもめとその息子が救われたのです。エリヤの時代においても神様は異邦人をも愛して、あわれんで下さり、信仰を持つ人を救って下さいました。

  この所に今イエス様が来られました。すると、その地方のカナン人女性が早速イエス様の所に来て『主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊にとりつかれているのです。』(22節)と、叫びながら娘の癒しを求めて来ました。彼女は異邦人でありながらイエス様の噂を聞いていて、イエス様に『主よ』『ダビデの子よ』と、正確に呼称を付けました。彼女はイエス様が誰なのかを正確に把握していました。そして、イエス様なら必ず娘を癒して下さると確信していました。彼女は切実でした。恥ずかしさをものともせず、イエス様に向かって大声で叫んだのです。

  ところが、彼女はあっさりとイエス様から断られてしまいました。イエス様は、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません』と、仰ったのです(24節)。私たちにとっても以外で頑なな応えに聞こえてしまいます。しかし、彼女は諦めません。更に主に近づき、ひれ伏して、主に助けを求めました(25節)。それに対して主は、更に軽蔑するかのように、『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです』と、冷たく言ってしまいました(26節)。私たちだったらどうでしょう。ここまで言われると諦めて、血相を変え、悪口を言うかも知れません。しかし、彼女は、謙遜に受け止め、諦めませんでした(27節)。イエス様は、そのような彼女の態度を見て『立派な信仰』と褒めて下さり、娘を癒して下さいました(28節)。

  私たちもこのやもめのように、イエス様が誰なのかをちゃんと学び、信頼して、諦めず、謙遜に近づくべきです。そこに主の癒しと赦しがあり、それらを味わうことができます。主は、決してやもめを見捨てませんでした。周りにいる人々に証となるため彼女を試して下さいました。周りの人々は結局は、彼女から色々と学ぶことができました。日々、イエス様を知り、主を信じて、諦めず、謙遜に主に近づいていきましょう。主は、あなたの祈りと願いに答えて、傷や病やビジョンを成し遂げて下さいます。アーメン。

 

毎日デボ Iコリント13:1-13『愛に基づく信仰』

 『また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。・・・13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(1コリント13:2、13)』

  神様に対する信仰はとても大切ですが、信仰が全てではないことに注意が必要です。もちろん、信仰が要らないと言っているのではありません。信仰はなくてはならない絶対的要素です。私たちは信仰がなくては神様に喜ばれないし、救われません(へブル11:6、ヨハネ3:16)。しかし、この信仰より優れているものがあると聖書は宣言しています。それは神の愛です。愛は、信仰に優先します。信仰が愛に優先することはありません。信仰は、神様に対する私たちの態度ですが、愛は、相互的関係にあります。神様が私たちを愛し、私たちにはその愛に応答します。神様が私たちを愛したがゆえに私たちは愛する者となり、真の神様を信じて救われる道が与えられたのです。もし、神様が私たちを愛して下さらなかったら私たちは生きることができません。

  信仰は、素晴らしい力を持っています。神様を信じる者は神の子どもとされ(ヨハネ1:12)、永遠のいのちをもって救われ(ヨハネ3:16)、キリストの御名によって何でもできる力を秘めています(ヨハネ14:13-14)。パウロも、自分に力を与えて下さるお方によって何でもできるというすごい信仰と確信をもっていました(ピリピ4:13)。イエス様も確かにからし種ほどの信仰があれば山を動かすことや桑の木を海に植えることができるほど、どんなことでもできると断言されました(マタイ17:20、ルカ17:6)。

  しかし、こんな信仰でも神の愛に優先することはありません。愛無き信仰は何の値打ちがないと教えています。山を動かすほどの完璧な信仰であっても愛がないなら何の価値をつけることができないというのです。愛無き信仰は、その価値がゼロです。それほど愛は、大切な無くてはならないものです。パウロは、ガラテヤの信徒たちに、『キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです』(ガラテヤ5:6)と語りました。即ち、私たちの信仰の働きのベース、源、動機、土台は愛からです。キリストの愛を伴う信仰こそが本物です。なぜなら、神は愛であり、その神様は私たちを愛してその愛をイエス・キリストの十字架を通して具体的に示して下さり、私たちも愛をもって信仰の歩みをするよう教えて下さったからです(1ヨハネ4:7-12)。

  ですから、もし、私たちが誰かを憎み、遠ざけ、差別し、無視し、関心を切って、受け入れずに信仰の歩みをしているのなら私たちは値打ちのない、偽善的な歩みをしてしまうことになります(Iヨハネ4:19-21)。愛無き信仰は、心臓のない体と同じなのです。私たちは、神様からイエス様を通して愛されている者です。神を信じれるのも神様が私たちを愛して下さったからです。ですから愛をもって信仰の歩み、生活、働きをすることが何よりも大事です。愛を養いつつ、主を信頼して、奉仕しましょう。愛をもって兄姉に、教会に、家族に、職場の同僚や学校の友人に仕えていきましょう。キリストの愛が常に自分の信仰生活の牽引となるよう祈り求めながら歩んでいきましょう。アーメン。

 

毎日デボ マタイ14:13-21『分かち合える信仰』

  神様は、私たちに日ごとの糧を与えて下さいます。毎日、私たちに必要な糧を備えて与えて下さいます。貧しい状況にあっても神様を信じて求めていけば主は、私たちに必要な知恵、知識、力を備えて私たちが飢え死することがないよう必ず与えて下さいます(申命記8:17-18、マタイ7:7-11)。ところが、私たちは日ごとの糧やお金のことで心配し、神の国と義を求めることが後回しになってしまいます。又は、この世のことが最優先になってしまいます。信仰による働きは、神の国と義とつながらず、自分の思いやこの世のことが優先になってしまいます。

  イエス様は、そのような弟子たちに神が全知全能であり、全てをお与えになるお方であることを教える為、また神の国と義とを先に求めるとは何かを教える為に5つのパンと2匹の魚を用いて下さいました。いつものように群衆はイエス様の所に大勢集まって来ました。そこ群の中には家族連れも多く、老人や子どもや病人もたくさんいました。イエス様もいつものように人々の病を癒しながら教えられました。

ところが、主の教えが長引き、時刻はあっという間に夕方になってしまいました。もう、家に帰る時間や食事をする時が過ぎてしまったのです。イエス様は、そのような群衆を見て、深くあわれんでおられました(14節)。そして、弟子たちに、『あなたがたで、あの人たちを何か食べる物をあげなさい』と、注文されました(16節)。それに弟子たちは必死に反発しました。そこは、辺ぴな所で、店や村もなく、たとい200デナリ(200日の賃金;約160万円ほど)があっても大人の男だけでも5,000人いるので全体の群衆(約2万人と言われている)を食べさせるのはとうてい無理と主張しました(ヨハネ6:7;一人食事代300円かかるとしも600万円が必要となるので)。

  しかし、イエス様は、イエス様が共におられるから彼らも主の名によってできる、だからその心を持つことが必要であることを自らのみわざを通して教えて下さいました。確かにそこには2匹の魚と5つのパンしかありませんでした。それでは何も出来っこありませんでした。しかし、イエス様は、それを祝福し、感謝し、祈りをささげた後に、弟子たちの手に引き渡し、彼らの手によって皆に配るように命じられました。すると、なんと奇跡が起こりました。2万人ほどの人々が全部腹いっぱい食べても12かごも残りました(20-21節)!

  イエス様は、私たちが十分に無くても持ってる物を通して分かち合う心、分かち合う行動を持つことを願っておられます。とうてい足りないからできないとか、十分与えられたらするという考えでは何もできません。神のみこころや御国を実現することができません。私たちに、1,000円しかなくても信仰によって主の御手に渡す時(主にささげる時)、主が私たちの手を通して私たちは勿論たくさんの人を満たして下さいます。有り余るほどの祝福を受けるのです。この世界の飢えている人々に、私たちの助けが必要な周りの人々に私たちが持っている物を分かち合いましょう。主の御名によって持て成しましょう。分かち合いましょう。それが主のみこころです。その人はお金(200デナリ)でとうていできない奇跡を起こし、体験することになります。アーメン。

 

毎日デボ マルコ2:1-12『とりなしの熱心な信仰』

5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。 (マルコ2:5)』

  私たちは誰かの救いと癒しの為にどれほど熱心に主の御前に出てとりなしの祈りをささげているでしょうか。また、誰があなたの為に時間とお金と労力を惜しまずs熱心にとりなしの祈りをささげて下さっているでしょうか。あなたはその大切さを深く認識しているでしょうか。今日の本文は、これらの重要性について中風にかかった人の例を通して彼ががどのように癒され、罪を赦してもらったかを教えています。

イエス様は、罪を赦す権威を持っておられるお方です。人にとって罪を赦してもらうことは、病気を癒してもらうよりはるかに大事なことです。しかし、主は、人の罪が赦されることを証明するために人の病気をも癒して下さる時がありました。もちろん、主は人々の全てのことをいつもあわれんで下さるお方です。主は、私たちの為にその十字架の死と復活をもって父と私たちの間のとりなしをして下さいました。そして、私たちにも人をとりなす特権を与えて下さいました(IIコリント5:17-20)。即ち、私たちの信仰の期待と熱心なとりなしが人を癒すことになることをこの例を通して教えて下さました。

今、イエス様の所に担架に担がれて一人の男性が運ばれて来ています。その男性は、中風にかかり、自分ではもはや動けなくなった人です。当時の医療技術では到底直すことのできない病気です。直すことが出来なければ寝たきりのまま死を迎えるしかない人生です。彼の病気の原因は、イエス様から言及されるほど重い罪のせいだったかも知れません。イエス様が、この中風の人に向かって最初に語ったのは彼の病気が癒されたことではなく、彼の罪が赦されたということだったからです。

ところが、彼のその罪と病気は、中風の人だけでなく、一緒に彼に担架に乗せて来た人たちの信仰も称賛され、癒される動機となりました(5節)。彼らはこの人の癒しの為に本当に必死の思いで動いてくれたのです。イエス様に会う為に来たのは彼らだけではありません。イエス様が入られた家には大勢の人々で玄関先まで犇めいており、担架に乗せられた人はこんなに込み合っている所に到底入ることは不可能でした。そのような状態では皆諦めてしまいます。帰ってしまいます。しかし、彼らは諦めませんでした。奇想天外が行動に出たのです。なんと人の家の屋根を剥がしてその屋根裏からその人を担架に乗せたままイエス様の目に前にまで吊るし降ろしたのです。今の価値観で見ると危険そのものです。しかし、彼らはその危険を冒してでも彼を直してほしかったのです。人の批判やつぶやきなんか気にしてられません。

イエス様は、そのような彼らの熱心な信仰、即ち、この男性を是非何があっても癒してもらおうとする態度を高く評価して下さいました。私たちは、どうでしょうか。主の御前にとりなしの為に共に集い、共に熱心に祈ることは人の罪の赦しと癒しを通してその人の命と人生を救うことになります。祈祷会や早天は大事です。初代教会の人々はよく集まって共に熱心に祈り合いました(使徒1、2章、へブル10:25)。主は、そのような祈りを蔑まれません。必ず、そのような祈りをささげる私たちの信仰を見て、子ども、親、兄姉、友人知人の罪を赦し、癒し、救って下さいます。アーメン。

 

毎日デボ 創世記13:1-18『相手に譲る信仰』

  今の世の中は自分の事を一番に考える世界になっています。電車を乗る時も少しでも早く乗って席を取りたいです。福袋の時期になると一番乗りで買いたいと願っています。人の事を考えるより自分を優先にしたいものです。人に良いものを譲るなんて、そんなことをしたら自分が損するだけなので、あまりそのようにはされたくないです。普段は譲っているように見えてもいざという時にはやはり自分が優先になりたいのです。さもないと、自分が結局、得することは何もないからです。

  例えば、今日の本文のように、土地の問題などの財産の事に関してはなおのことです。アブラハムと甥ロトはいつも一緒に同行しました。ロトはアブラハムを慕い、アブラハムはロトを溺愛していました。彼らはいつどこに行っても一緒でした。彼らは共に家庭を持ち、富豪になりました。財産が増えるにつれいよいよ共に暮らすのが到底難しくなってきました。結局、アブラハムの牧者たちとロトの牧者たちの間でも牧草をめぐり、争いが起こり始めました。アブラハムとロトはお互いに別れなければならない選択に迫られました。

  ここでアブラハムとロトの選択を私たちに良い信仰の教訓を与えてくれます。アブラハムは、ロトに選択権を優先に与えてあげました。自分が年上で親戚関係でも上に立つ立場だから先に土地を選びませんでした。アブラハムはロトに先に選ぶ優先を与え、ロトが右を選ぶと自分は左に、ロトが左を選ぶと自分は右を選ぶと言いました。これは、アブラハムがどうでも良いと思ったからではなく、信仰に立っていたからでした。ロトは、自分の目に肥沃に見える(実際、そうだったが)、ソドムとゴモラの地を自分が定着する地として選びました。結局、アブラハムに残った土地は、岩と丘が多い山地となりました。しかし、アブラハムは、信仰によって①自分の家族と争いませんでした。②そして、先に優先権を譲りました。

  そのアブラハムを神様は祝福して下さることを改めて約束されました。神様は、今、アブラハムが見渡す地を彼と彼の子孫たちに与えて下さると約束しました。実に、この地は人の目には険しく、あまり肥沃に見えなくても、神様が共にいてくださる聖地でした。神様のみわざが行われる祝福の地でした。アブラハムの選択は正しかったのです。彼は、目に見える良いものを選びませんでした。彼は、信仰によって人に優先権を譲りました。神様は、そのアブラハムを祝福し、信仰と先祖、メシヤであるイエス様の先祖として下さいました。

  私たちも日々の生活で人との色んなかかわりをもち、選択をしなければならない時があります。その時、自分を優先にするか、あるいは人を優先にするかも選択しなければなりません。その場合、どうでも良いという姿勢ではなく、神様が必ず祝福して下さるという信仰に立って、相手を優先に思う、心の配慮に立つ時、神様は、神の人を必ず守り祝福へと導き入れて下さいます。今は、自分が損するように見えても、主は、信仰によるあなたの謙遜な選びを祝福して下さいます。毎日、このような信仰に立って主の導きに歩んで行きましょう。アーメン

 

毎日デボ ローマ4:16-25『アブラハムの信仰と義』

19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。(ローマ4:19-22)』

  アブラハムは全ての人の信仰の先祖です。アブラハム以前の信仰者たちも敬虔な信仰を持っていましたが、アブラハムは、とりわけ神様の約束をいただいた人物です。神様は、アブラハムを通してイスラエルだけでなく、世界の全ての国民が祝福を受けると約束されたのです(創世記12:1-3)。そして、確かに、アブラハムを通してイスラエルという国が生まれ、そして、キリスト・イエス様がその子孫として来られ、私たちはイエス様を通して救われるようになりました。このアブラハムは、全人類の信仰の始まりです(ガラテヤ3:7-14、29)。もちろん、信仰の創始者はキリスト・イエス様です(へブル12:1-2)。即ち、神様が特別にアブラハムを選び、イエス・キリスト様を通して彼が信仰の最初の先祖となるようにして下さいました。

  ですから、私たちは、アブラハムを通して信仰を習うことができます。彼の信仰が神様に称賛され、義と認められたように、私たちも彼の信仰を習って神様に称賛され、義と認められ、祝福に預かることができます。今日の本文が語っているのは、『アブラハムの神様に対する絶対的な信頼と期待』についてです。アブラハムが神様から召されたのは、75歳の時でした。その時は、妻サラは65歳でした。今で言うならば二人とも高齢者ですが、当時は二人ともまだまだ元気で子どもも産める力を持っていました。神様は、二人に彼らの間から子どもが生まれ、その子どもを通して大きな国を形成することを約束されました。

  しかし、いくら時間が経っても一向に子どもが産まれる気配はありませんでした。ただ二人はどんどん歳を重ねるだけで、とうとう二人とももう子どもを持つことができないほど歳を取ってしまいました。アブラハムとサラは焦るようになりました。子どもが欲しかっただけでなく、神様から直接約束をいただいて期待が膨らんでいたのに、いくら待っても子どもは生まれて来なかったからです。それで二人は変則なやり方を取りましたが、神様は、『それはダメ』と言い、彼ら夫婦に必ず子どもが与えられることを約束されました。

  それでアブラハムとサラは、自分たちの体が子どもを産めない状態になっても神様の約束を捨てることはしませんでした。神様に対する信頼と期待を決して捨てませんでした。何よりも神様の約束のみことばをしっかりと握り続けました。そして、とうとう約束の子、イサクを預かることができました。そして、その信仰が彼らの義となりました。

  私たちは、どうでしょうか。どんな難しい状況や環境の中でも神様を信頼し、期待しているでしょうか。神様のみことばを読み、聞き、しっかりと握り続けているでしょうか。ならば、神様は、私たちの祈り、期待、求め、信頼を裏切ることなく、必ず成就させてくださいます。もう道がないと思われても、可能性が閉ざされても、神様には出来る力があります。私たちもアブラハムに習って堅く信じ、主のみことばを握り続けていきましょう。主に信頼する者は決して失望に終わることがありません(イザヤ28:16;Iペテロ2:6)。アーメン。

 

毎日デボ ローマ4:16-25『アブラハムの信仰と義②』

19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。(ローマ4:19-22)』

  私たちは、人生において様々な困難に直面します。その時に、常に信仰が試されます。問題は、簡単な問題ではなく、難しい問題です。自分で何とか出来ることなら、信仰が試されることはありませんが、自分ではどうしようもないことにおいては信仰が試されるのです。特に、その問題が長引くとなおさらです(箴言13:12)。焦って、もどかしくて、イライラして、不安と心配で心が折れてしまいます。我慢できなくなります。心配で心が満たされ、頭が真っ白になります。信仰が試されるのです。

  しかし、この時、私たちには良い信仰の模範者がいます。信仰の先祖アブラハムです。彼が神様から召されたのは、若い25歳の時ではありません。当時では中年を過ぎたとも言える75歳の時です。今の時代よりまだ子どもも産めるほどかなり若かった時代だったそうですが、それでも高齢に近づいていまいした。妻、サラも65歳でした。

ところが、彼らが神様に召され、彼らに神様が子孫をお与えになると約束された時、彼らは主を信じたと記録していません。もちろん、神様を信じなかったわけではありませんが、彼らはまだ子どもを産める体でしたから、それは当然のように思っていたかも知れません。しかし、神様の約束とは違って中々子どもは与えられませんでした。段々と焦るようになった二人は、自ら神様に計画B案を提案しました。それは、ダマスコ人、エリエゼルを自分の相続者として養子入れすることでした。神様が約束とは違って子孫を与えて下さらないからだと言いました(創世記15:2-3)。

しかし、神様は、アブラハムを外に連れ出して普通に見える夜空の星を見させて、彼の子孫がこのようになることをもう一度約束して下さいました。その時、アブラハムは神様を信頼しようと決心し、それが彼の義と認められました(創世記15:5-6)。だが、アブラハムはそれでも中々子どもが与えられませんでした。問題は、アブラハムの体ではなく、妻サラにありました。それでサラは、計画Cを夫に提案し、夫アブラハムはそれを受け入れました。それは、サラの女中ハガルを妻として受け入れ、サラの為に子どもを産んであげることでした。そして、アブラハムに待望の男の子、イシュマエルが生れました。アブラハム86歳の時です(創世記16:1-16)。しかし、これも神様のご計画ではありませんでした。この事でアブラハム家庭は結構悩むようになりましたが、神様は彼らをあわれんでくださいました。

  結局、アブラハムとサラに約束の子どもが産まれたのは、アブラハムが100歳、サラが90歳の時で、最初の召しから25年が経ち、二人ともさすが高齢者に入る歳で、子どもを産める可能性が実質無くなった時でした。しかし、2度目の大きな失敗を通して彼らは完全に主によりすがるようになりました。信仰が消えるところか、ますます主に信頼し、期待しました。

  私たちはどうでしょうか。期待が外れる時、願いが長引く時、状況が改善されず、祈りが聞かれてないように思われる時、全ての可能性が閉ざされた時、それでも主を信頼していますか。主を信頼しましょう。主に近づき、期待していきましょう。主が成し遂げて下さいます。アーメン。

 

毎日デボ Iサムエル17:1-58『ダビデの信仰と勇気』

 『45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。(1サムエル17:45-46)』

あなたは、勇気ある人ですか。それとも恐れの多い人ですか。神様が私たちに与えて下さった霊は、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊だと教えています(IIテモテ1:7)。ですから、もし、私たちが全能の神様を本当に自分の全能者、救い主として信じているならば何も恐れることはありません。神様に対する信仰は私たちを強くしてくれます。神様を信頼すればするほど、信じれば信じるほど、頼れば頼れるほど、私たちの心と霊はますます強くなってきます。何も恐れることはありません。主を信頼することによって勇気が与えられます。どんな敵にも立ち向かうことができます。敵とは、必ずしもサタンや人になるとは限りません。自分自身、心配、恐れ、落ち込み、失望、怒りも目に見えない敵となります。このような敵に対して信仰によって立ち向かうことができます。

ダビデは、この信仰による勇気をもってゴリヤテに立ち向かい、勝利することができました。ゴリヤテは背が3メートルにも達する巨人でその力も重さ300キロを超える武器や武具を軽く扱えるほどの大きな勇士でした。彼の声だけでイスラエルの勇士たちは震えあがり、誰一人彼に立ち向かおうとする者が名乗り出ませんでした。しかし、ダビデはまだ17歳の少年で兵士でもなんでもありませんでしたが、聖なる神と神の民に対するゴリヤテの嘲弄と侮辱を聞き、彼に対抗して奮い立ちました。ダビデには、剣も盾もありませんでした。もちろん、それらを上手に扱える技術も実力もありませんでした。しかし、彼の得意のわざ、石投げを通して自分より倍にも近い巨漢ゴリヤテを一撃で殺すことができました!信仰による勝利です。

私たちにも大きな巨漢が立ちはだかる時がしばしばあります。厳しくいじめてくる上司かも知れません。厳しく当たってくる誰かかも知れません。自分の性格や傲慢かも知れません。誘惑に負けやすい自分かもしれません。恐れやすい自分の性格かも知れません。様々な巨人が自分の目の前に立ちはだかる時、ダビデのように、自分の実力ではなく、万軍の神、主の名によって立ち向かう者は、必ず、勝利することができます。その為に、先ず、ダビデのように、普段から主を信頼することを学び、養いましょう。恐れず、主を信頼して勇気をもって今日の巨人に立ち向かっ:ていきましょう。私たちはイエス様にあって既に圧倒的な勝利者です(ローマ8:37)。

 

毎日デボ 創世記5:21-24『エノクの信仰①』

  『エノクは65年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、300年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は365年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。』(21-24節)

  エノクは、アダムの7代目の子孫です。彼は、聖書の族長の中でも非常に特別な人物です。彼は、アダムが622歳の時に生まれ、他の1000年近く長寿した人物たちとは違い、365年だけ生きながら、アダムとは308年共に生きました。65歳の時、長男を得、その名をメトシェラと名付けました。そのエノクは、アダム以外の他の先祖たちがまだ生きている間、彼らの見ている前で死を見ることなく、神様に連れられて行きました。それは、彼が他の人物とは違って『神様と共に歩んだ』からでした。

  エノクと言う名前は、「ささげられた者」と言う意味を含んでいます。即ち、エノクは、神様にささげられた者でした。ところが、聖書は、エノクが神様と365年共に歩んだと記述しているのではなく、300年、神様と共に歩んだと記録しています。それは、彼が65歳になるまでに聖書が評価できるほど神様と共に歩んでなかったことを意味しています。しかし、彼が65歳の時、息子を生みながら彼の信仰生活に変化が起こりました。それは、彼がその時から神様と共に歩み始めたということです。

  エノクは、自分自身をその時から本当にささげて生きる者となりました。徹底的に自分をささげる献身者となりました。彼は、どういうわけか、生れた長男の名前を『メトシェラ』と名付けました。それは、『彼が死ぬときさばきがある』という意味です。実際、メトシェラが969歳で死ぬ年、ちょうどノアが600歳のなった年に大洪水の審判が神様から下され、人類と全ての生き物が滅んでしまいました。その未来の事をエノクは、何らかの形(それが神様のからの啓示だったのか、それとも先祖から教えられたのかは分かりませんが)ではっきりと知るようになり、人類への警鐘と証として息子の名前をメトシェラで残しました。

  そして、彼自身も今までの人生の歩みの態度を変えて、神様と共に歩み人生となりました。彼の信仰の生き方は、あまりにも高潔で完璧だったので神様は、彼に死を与えず、彼をそのまま天に連れて行かれました(へブル11:5)。神様と同行するとは、神様との心を合わせることです。神様と方向を共にすることです。神様とスピードを共にすることです。神様のみことばに従うことです。エノクは、罪を犯し、自分勝手に生きる人類がやがてどうなるのかを知りました。そして、彼は自分の態度を改め、人々への証として息子の名前をそう残したのです。

  私たちにもそのような崇高な名前が与えられていますイエスキリストです。主の御名は、救いであり、審判者の意味を含んでいます。やがて人類の終わりが来ます。神様の審判があります。ですから、私たちは、エノクのように主と共に歩むべきです。主がその人を死から永遠のいのちへと移して下さいます。あなたは主と共に歩んでいますか。自分の態度を変えて主と共に敬虔に歩みましょう。アーメン。

 

毎日デボ へブル11:5『エノクの信仰②』

  『5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。 (へブル11:5)』

  人は元々罪がなく、聖く、神とともに永遠に生きる存在として造られました。しかし、アダムとエバの罪により堕落してしまった人は死ぬ者となってしまいました。アダムは、930年生きましたが、結局死んでしまいました。アダム夫妻の次男、アベルが死んでから二人目の死でしたが、アダムは最初に自然死した人となりました。そのアダムは、7代目の子孫エノクと一緒に308年共に生きました。もちろん、彼はエノクが産んだメトシェラ(8代目)やその子レメク(9代目)とも一緒にしばらくの間生きました。しかし、大洪水による審判の時代を通るノアが生れる前には既に亡くなっていました。当時生まれた人類の全ての者がアダムの死を通して人の死をはっきりと目撃し、人の死を認識するようになりました。

  ところが、エノクは、他の子孫たちがまだ生きている間に、死を見ることなく、神様から天へと移されました。彼の先祖である、セツ、エノシュ、ケナン、祖父マハラレル、父エレデ、そして息子メトシェラと孫レメクがまだ生きていて、彼らも経験してないことでした。この二人(アダムとエノク)の生き方と死に方は対象的でした。永遠に生きるはずのアダムは死んで、死ぬはずのエノクが死を見ることなく、神様の所へと移されたのです。これは非常にショッキングな出来事であり、人類に対する希望のメッセージでした。

  さて、エノクの事は、創世記5章で、神様と300年共に歩んだと記しています。そして、そのエノクをへブルの手紙の著者は、『神に喜ばれていたことが、証されていた』と表現しています。聖書の人物の中で死を見ることなく、移された人が二人いますが、エノクと預言者エリヤのみです。イエス様は、一度死んでからよみがえられました。エリヤが死を見ることなく引き上げられたことは彼も神様と共に歩み、神様に喜ばれていたことを意味します。聖書にエノクのことはそれほど多く記録していませんが、エリヤの方は割と多く語られています。ですから、私たちはエリヤの姿を通してある程度エノクの生き方、信仰を学ぶことができます(I列王記17章~II列王記2章)。

  しかし、エリヤの信仰は次回に学ぶことにして、エノクの信仰については、本文が記しているように、エノクは神様が喜ばれることを選び、歩んでいたことが常に周りに証となっていたことが分かります。彼が神様に引き上げられるほど神様に喜んでもらっていたことは、エノクが神様のみこころを知り、それに従っていたことを意味します。彼は、人生を悔い改めた後、一度も神様のみこころから逸れたことがありませんでした。彼は、常に神様を思い、慕い、従う人でした。神様と共に歩みつつ、フライングすることも遅れることもありませんでした。神様が聖であるように、彼は聖く生き、きちんと神様と信仰の歩調を合わせる人でした。神様は、その彼を他の先祖たちと同じく900年生かしたのではなく、死を見ることなく、早くも連れて行って下さいました。よっぽど神様がそばに置いていたかったようです。

  エノクにならって神様と共に歩みましょう。神様が私たちを喜ぶ人生は死を見ることなく、永遠に生きる素晴らしい人生です。罪と死は私たちを悲しめ、疲れさせ、人生を疲弊させてしまいます。その人生は決して神様が喜ぶ人生ではありません。私たちを正し、戒め、真理の道へ導く神のみことばに日々励みつつ、主を喜び、主のみこころに歩みましょう。私たちもやがてエノクのように、たとえ体は死ぬとしても、第2の死を見ることなく、主のみもとへ移される時が来ます。アーメン。

 

毎日デボ 創世記17:1-27『99歳の約束』

  『しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。』(21節)

再びアブラハムの信仰について戻って学びましょう。今日の本文からは、信仰には継続性が必要であることを教えています。即ち、信仰はその時だけ信じることではなく、継続的に主に信頼することです。信仰が途中で途切れることがないことです。途中で諦めたりしないことです。ですから、継続性には忍耐が必要です。祈りや約束が聞かれるまで待ちながら忍耐しなければならないからです。私たちの信仰は、この忍耐による継続性によって成長していくことが可能です。実に、主はそれを願っています。主は、私たちが主を信じていても私たちの信仰がまだ幼く、弱く、未熟であることを知っておられます。ですから、主は、私たちの信仰が成長するよう待って下さいます。私たちの信仰の成長の為に、私たちが待つというより主の方が待って下さいます。

今、アブラハムを通して主はその過程を私たちに教えて下さっています。最初、アブラハムに与えられた約束は彼が75歳の年でした(創世記12:1—4)。その約束とは、妻サラとの間で生まれる子どもを通して多くの子孫をお与えになるという約束でした。彼は、それを信じて受け入れました。そして、しばらく時間が経ってもう一度告げられた時も信じて義と認められました(創世記15:1-6)。ところが、その約束から10年が経っても何の消息もないことに焦り出した二人は、つい人間的なやり方に乗り出してしまいました。それはサラの女中、エジプトの女奴隷であったハガルを通してサラの代わりに子どもを産んでくれることでした。いわゆる、昔式の代理母出産です。ハガルは、アブラハムの男の子イシュマエルを出産しました(創世記16章)。

  しかし、その子は、奴隷ハガルとアブラハムの子で、本妻サラとアブラハムの間の子どもではありませんでした。アブラハムが犯してしまった過ちを神様は収拾して下さいましたが、アブラハムとその子孫はこの結果を歴史の中で負わなければならなくなした。神様は、そのアブラハムに対して忍耐して待って下さいました。そして、アブラハムは試行錯誤しながら信仰が成長していきました。

ところが、アブラハムはそれからさらに14年を待つようになりました。そして、ついにサブとアブラハムは子どもを産めない年になってしまいました。サラ89歳でアブラハム99歳。しかし、彼らの信仰は衰えませんでした。神様の約束は必ずなることを信頼するようになりました(ローマ4:19-22)。神様は、99歳の老人となったアブラハムに再び最初の力強い約束を与えて下さいました。アブラハムを通して多くの国民が生れることを。

そして、それは成就されました。更に、その約束は今日にイエス・キリストを通して成就されています。あなたも私も皆キリスト・イエスにあってアブラハムの子孫です(ガラテヤ4:21-31)。私たちはその大いなる約束をイエス・キリストに対する信仰によって受け継ぐことができます(ガラテヤ3:26-4:7)。主は、アブラハムと更に対して忍耐して待って下さったように、私たちに対しても忍耐して待って下さいます。そのプロセスを大切にし、キリスト・イエス様にあって成長していきましょう。どんな状況になっても人間的にフライングすることなく主を信頼しましょう。主の祝福の約束は必ず成就します。アーメン。

 

毎日デボ 創世記18:16-33『とりなす信仰』

  『32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」 (創世記18:32)』

  私たちには神様の御前で祈りをささげることが赦されています。神様は私たちの祈りを喜んで聞いて下さいます。もちろん、その祈りは美辞麗句である必要はありませんが、純粋で聖くなければなりません。罪を犯し続けながら神様に自分の祈りをかなえてほしいと要求するのは無理です。また、自己中心となって創造主を動かそうとする態度は私たちの祝福に何の役に立ちません。神様は私たちが自分の事だけでなく人の事の為にも祈ることを喜んで下さいます。即ち、私たちが家族以外の者の為にとりなすことを大変喜んで下さいます。それをとりなす信仰と言います。

  この信仰はむろんイエス様から始まっています(へブル12:2)。イエス様は、父なる神様と私たちの間をその十字架の死をもってとりなして下さいました。そして、私たちも神様と人との間をとりなすことのできる特権をお与えになりました(IIコリント5:17-21)。神様は、私たちがたとえ無理やりに生かされている場所であったとしてもその場所に住む人々の為に、その社会や国の為に祈ることを願っておられます(エレミヤ29:7)。また、私たちが自分と関わりのある全ての聖徒たちの為にとりなすことをも願っておられます(エペソ6:18)。

  このとりなしの祈りは大昔、信仰の父アブラハムの姿から学ぶことができます。本文で分かるように、アブラハムは今ソドムとゴモラの為にとりなしの祈りを神様の御前に訴え出るような感じてささげています。そのソドムとゴモラは甥であるロトが選んで住んでいた都市です。人の目には、平地で、肥沃で、何もかも揃えて過ごしやすい町に移っていましたが、中身は罪と堕落でボロボロでした。経済的には繁栄していたかも知れませんが、罪の温床となっていました。その町の叫びがとうとう神様の御前に届き、神様の審判がいよいよ下される時が近づきました(20節)。

  神様は、その事実をアブラハムに知らせて下さいました。それを聞いたアブラハムは非常に驚き、戸惑いました。あわれみ深く、恵み豊かな神様がロトがいる町を滅ぼすなんて、かなりの恐怖でした。それで彼は神様に是非そのさばきを再考慮していただくべく、義人の数を取り上げて熱心にとりなして来ました。最初50人から出発しました。何万人者の住む町だから50人くらいはいるだろうと思ったことでしょう。しかし、顔を広いアブラハムでもいざ数えてみるととても足りないことが分かりました。それでもアブラハムは諦めず、数を少しずつ減らしながら主がこれらの町を滅ぼさないようとりなしの祈りをささげました。残念ながらアブラハムのとりなしはこれらの町には当てはまりませんでしたが、幸い、甥ロトと彼の娘たち二人は命拾いするようになりました。神様は、アブラハムの祈りを聞いて下さったのです(創世記19:1-29、特に29節)。

  キリストにあってアブラハムの子孫である私たちにもこのようにとりなしの特権と聖なる義務が与えられています。私たちは誰かの救いだけでなく、この社会、国、世界の為にとりなすことができます。是非、これを用いましょう。日々人や国や世界の為にとりなしことによって神の御国を促進していきましょう。アーメン。

 

毎日デボ 創世記22:1-19『信仰によって献げる①』

  『神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」 (創世記22:2)』

  アブラハムは、自分の本妻サラから待望の息子を預かることがやっとできました。彼らはその名をイサクと名付けました。神様から約束をいただいてから25年。二人の喜びは言い表すことができないほど大きいものでした。イサクは、兄イシュマエルと一緒にアブラハムの下ですくすくと成長していきました。そして、たくましい青年となりました。

  ところが、ある日、神様は突然、アブラハムに成長盛りの最愛の息子イサクを神様にいけにえとしてささげるよう命じて来られました。それはあまりにも唐突で恐ろしい命令でした。生きている自分の息子。それも神様が約束してお与えになった息子。アブラハムが最も期待し、愛している息子。自分と自分の子孫の未来を背負っている息子。アブラハムが神の道から外れて産んでしまったイシュマエルではなく、正道を歩んで産んだ息子イサクをささげなさいなんて、到底理解しがたい。

しかし、神様の命令は一言で終わりました。『あなたの子、あなたの愛している子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしが示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』(2節)と。アブラハムの召しとミッションはだった一つ。最愛の息子をいけとして神様にささげること。拒否する権利はあるのか。拒否できる可能性はあるのか。逃げていく場所はあるのか。代替のものはあるのか。どうしてイシュマエルではなく、イサクなのか。アブラハムはサラとこの事でもめたかも知れません。しかし、サラから頭がおかしくなった父、おかしな神様と呼ばれませんでした。不思議にサラも同意しました。

どうですか。もし、あなたがこう言われたとしたら。もし、あなたの夫が、または妻が教会の礼拝や祈祷会から帰って来るなり、興奮してこのようなことを告げるとしたら。あなたは黙々とアーメンだけで答えることができるのか。夫や妻の話しを認めることができるのか。いくら啓示や預言の賜物を持っている配偶者だとしてもこれだけは信じられない、受け入れがたいのではないか。従順に最愛の息子をいけにえとして引き渡すことができるだろうか。

  アブラハムはこのストーリーの前末全てを知りませんでした。途中どんな展開になっていくのか。結論はどうなるのか。全てが見えて知ったわけではない。しかし、アブラハムに一つの武器がありました。それは神様の約束。全能者からの約束。聖なるお方からの約束。それは彼と彼の子孫を通して全世界の民族が祝福されること。彼の子孫が空の星のように数えきれないほど増えること。アブラハムは、神様に対して絶対的信頼を置き、自分が受けた召しを確かめながら信仰の道を歩み始めました。そして、勝利することができました。

  私たちも主を信頼して一歩踏み出そう。一番良いものをささげなさいと言われた時、いつでもその備えが出来ている者は幸いです。その過程や結末が見えるわけではない。しかし、全能者は私たちが主に信頼して、主に委ねて、全てを明け渡すことを願っておられる。その先にあるのは、勝利と祝福である。アーメン。

 

毎日デボ Iサムエル17:1-58『ダビデの信仰と勇気』  

 
『45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。(1サムエル17:45-46)』
 
あなたは、勇気ある人ですか。それとも恐れの多い人ですか。神様が私たちに与えて下さった霊は、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊だと教えています(IIテモテ1:7)。ですから、もし、私たちが全能の神様を本当に自分の全能者、救い主として信じているならば何も恐れることはありません。
 
 神様に対する信仰は私たちを強くしてくれます。神様を信頼すればするほど、信じれば信じるほど、頼れば頼れるほど、私たちの心と霊はますます強くなってきます。何も恐れることはありません。主を信頼することによって勇気が与えられます。どんな敵にも立ち向かうことができます。敵とは、必ずしもサタンや人であるとは限りません。自分自身、心配、恐れ、落ち込み、失望、怒りも目に見えない敵となります。このような敵に対して、私たちは信仰によって立ち向かうことができます。
 
 ダビデは、この信仰による勇気をもってゴリアテに立ち向かい、勝利することができました。ゴリテは背が3メートルにも達する巨人で、重さ300キロを超える武器や武具を軽く扱えるほどの怪力の勇士でした。彼の声だけでイスラエルの勇士たちは震えあがり、誰一人彼に立ち向かおうと名乗り出る者はいませんでした。
 
 しかし、ダビデはまだ17歳の少年で兵士でもなんでもありませんでしたが、聖なる神と神の民に対するゴリテの嘲弄と侮辱を聞き、彼に対抗して奮い立ちました。ダビデには、剣も盾もありませんでした。もちろん、それらを上手に扱える技術も実力もありませんでした。しかし、彼の得意のわざ、石投げを通して、自分より倍にも近い巨漢ゴリテを一撃で殺すことができました!信仰による勝利です。
 
 私たちにも大きな巨漢が立ちはだかる時がしばしばあります。厳しくいじめてくる上司かも知れません。厳しく当たってくる誰かかも知れません。自分の性格や傲慢かも知れません。誘惑に負けやすい自分かもしれません。恐れやすい自分の性格かも知れません。様々な巨人が自分の目の前に立ちはだかる時、ダビデのように、自分の実力ではなく、万軍の神、主の名によって立ち向かう者は、必ず、勝利することができます。
 
 その為に、まず、ダビデのように、普段から主を信頼することを学び、養いましょう。恐れず、主を信頼して勇気をもって今日の巨人に立ち向かっ:ていきましょう。私たちはイエス様にあって既に圧倒的な勝利者です(ローマ8:37)。
 

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