ニュートンの作った宇宙
英国の科学者、万有引力の法則の発見で有名なアイザック・ニュートン(1643~1727)が、あるとき、太陽系の模型を1つ作った。巨大な金色のボールを「太陽」として、その周辺に、ボールで水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星を、順番に1列に作り、回転させると、本物の太陽系と同じように、太陽を中心に全ての惑星が規則的に動いた。素晴らしい出来栄えだった。多額の製作費をかけ、詳細に設計し、技術者達を用いて皆で努力して、模型の太陽系を精巧に作り上げたのだ。 

  ある日、ニュートンの友人がやって来た。彼は、熱心な無神論者だった。彼は、太陽系の模型を見て感動し「これはすごい!太陽を中心に、水星、金星、地球、そして天王星、海王星、冥王星までちゃんと規則的に周るなんて、本当に素晴らしい!一体誰が作ったの?」と尋ねた。すると、ニュートンは言った。「誰も作らないよ。」「誰も作らなかったって?」「いやあ。ある日、見てるとね、このボール達が集まって、自分達で話し合いをしていたんだよ。そして大きな音がしたので、見て見ると、こうなっていたのさ。」「君は、人をバカにしているのか。ふざけるな!」そのとき、ニュートンが言った。「これは、ただの模型に過ぎない。だけど、これを作る為に、私は詳細に設計し、沢山の時間とお金をかけたに決まっている。設計して、創造した人間がいなかったなら、これは存在しなかった。こんな模型でも、本当に大変だったのに、まして、本物の宇宙が、君の考えでは、偶然ぶつかってできたと思っている。本当にそうだろうか、よく考えてみたらどうだ。」すると、友人は顔を縦に振って「そうだね。これも設計しないと作れないのに、まして宇宙の背後に知的設計者がいなかったら、この宇宙は存在しなかっただろう。」彼は、創造主を認め、信仰を持ったという。

実は聖書の神様は、この天地万物、全ての人間の造り主です。この方はあなたの髪の毛の数もご存知です。そして「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とあなたに語っておられます。是非この真の神様を求めてグレース宣教会においでください。神様に出会えます。

グレース宣教会 牧師 金子 隆

 「自分はどうして聖書の神様を信じているのか。」「世界中には多くの神と呼ばれるものが存在している中で、自分はどうして聖書に書かれている神だけを信じるのか。」 友人からは「昔からそう聞いてきただけやろ?」とか「宗教に縛られてるな。」「洗脳されてるんちゃう?」などと言われたこともあります。かつてはそのことについて深く考えることはせず、ただ漠然と聖書の神を受け入れてきました。しかし聖書に書かれている預言が授業で学んだ歴史と一致していることに気づき、聖書が真実であることを確認できたことと、神様に愛され、支えられていることを実感したことで、今では聖書の神様が唯一の神様であるという確信に変えられています。 

私は幼い頃にイエス・キリストを自分の救い主として信じました。学校生活や受験で多くの恵みを受けてきましたが、信仰について悩むこともありました。私は、信仰は右肩上がりに強くなっていくものだと考えていたため、良いクリスチャン像は頭の中では分かっていても、なかなかそうなれない罪悪感でしんどかったときがあります。次第に求められているハードルの高さで厳しい神様のイメージが付き、厳しい神様の言葉を聞くこともしんどくなり聖書を読むこともおろそかにしていました。こんな自分でも神様は愛してくれているのかと不安にもなっていきました。しかしあるとき、「わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している。」という聖書の言葉がスッと心に入り、神様の無条件の愛を思い出せました。自分が神様に喜ばれることをしたからではなく、罪深いありのままの自分を変わらない愛で愛してくれて用いてくださることを本当に実感しました。今では多くの行動が神様に対する心からの感謝が伴ったものに変えられていることに感謝しています。これからも神様を悲しませることがあると思いますが、その都度、悔い改めながら、成長を祈っていこうと思います。真の愛を忘れずに。

 1587年の秀吉による「バテレン追放令」に始まったキリシタンへの迫害は、江戸幕府になると激しさを増し、1613年全国へのバテレン追放令以後幕末を迎えるまで、キリスト教は徹底的に弾圧され、西洋音楽との接触も断たれてしまった。 しかしその後、1853年(嘉永6年)ペリーの艦隊(黒船)が那覇を経て、7月8日浦賀に入港。2日後の7月10日は太陽暦の日曜日で、艦上で礼拝が捧げられた。軍楽隊の伴奏で「こよなくかしこし」(讃美歌5番)が歌われ、海岸まで聞こえたという。ここに200年以上の時を経て、再び日本人の耳に西洋音楽が届いたのであった。(図1) 

1859年幕府は横浜、神戸などの居留地において、外国人の信仰の自由を認め、宣教師の来日を許可した。それによりヘボン、ブラウンらのアメリカ人プロテスタント宣教師達が横浜居留地で宣教を始めた。彼らは、禁教令が廃止されるまで日本語の習得に励み、病人に医療を施し、日本人に英語教育を行い、聖書の翻訳に励んでいた。讃美歌の翻訳はまだ遅れていた。 長崎では、1865年(元治2年)に大浦天主堂が建てられ、その献堂式には居留外国人を含め、長崎港に停泊中のフランス、ロシア、イギリス、オランダの艦長がそれぞれカトリック信者の水兵数名を従えミサに参列した。ある日堂内で祈りを捧げていたフランス人神父プチジャンの元に「ワレラノムネ、アナタトオナジ」と信仰を告白した信徒たちが現れた。これが250年間密かに信仰を守り続けてきた「奇跡の信徒発見」の瞬間であった。彼らは何世代も「オラショ」を歌い続けていた。(図2)

1872年(明治5年)には、第1回宣教師会議が横浜で開かれ、英語から訳された最初の日本語讃美歌「エスワレ愛シマス」と「ヨキ土地アリマス タイソフ遠方」の2曲が紹介された。「エスワレ愛シマス」は讃美歌461番「主我を愛す」であり、今も子供の讃美歌として歌い継がれている。「ヨキ土地アリマス」は聖歌687番「まもなくかなたの流れのそばで」である。 外国人宣教師達は、キリシタン迫害の実態を目にし、これが西欧諸国から明治政府へのキリスト教禁制解禁の一つの圧力となり、1873年(明治6年)キリシタン禁制の高札が取り降ろされた。まもなく最初の日本人教会が横浜で設立され、その後次第に各地に教会が設立された。西洋音楽は、再び讃美歌として日本に入ってきたのであった。     

讃美歌歴史研究会

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