毎日デボ  ヨナ1:1-9『I.礼拝とは何か』

 皆さん、こんにちは。お元気ですか。今までの毎日デボでは聖書順に御言葉を学んで来ましたが、これからはトピック順にみことばを学んで行きたいと思います。例えば、礼拝、お祈り、信仰、愛、希望、赦し、贖い、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊、十字架、救い、聖餐、洗礼、教会、賛美、交わり、献金、お金、奉仕、みことば、恋愛と結婚、死、献身、仕事など言った信仰生活における様々な大事なテーマについて学んでいきます。これらのテーマはそれぞれが独立しているのではなく、網のように全てが御言葉によってつながり合って、2つを目指しています。それは、キリストのからだなる教会形成と、共にキリストにまで成長していく姿です(エペソ4:11-16)。これらの学びを通してしっかりした敬虔なクリスチャン、主に充実なクリスチャンとなり、主のからだなる教会を立派に建て上げていきましょう。今日からは先ず、礼拝について学んでいきましょう。

 『ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝して(恐れて)います。」(ヨナ1:9)

  では、先ず、礼拝とは何かについて学んでいきましょう。皆さんは、礼拝をどのように理解しているでしょうか。礼拝とは、自分にとって何でしょうか。どれほど礼拝を重んじ、大事にしているでしょうか。旧新約の時代の先人たちは礼拝を自分たちの命より大事にして、命をかけて礼拝を守っているほどでした(ダニエル6:1-14)。自分たちの都合や環境によりゴロゴロ変えたり、辞めたりしませんでした(へブル10:25)。礼拝は、彼らにとっていのち以上のものでした。

  しかし、現代の私たちは礼拝を非常に軽く考えている傾向があります。昔は礼拝が非常に重苦しいフォーマル的なものだったのに対して現代は非常にキャジュアル的になりすぎる部分があります。自分の都合で簡単に礼拝を変えたりします。礼拝に遅れることを何とも思いません。服装もそれほど気にしません。献金することも真剣に祈りに祈って準備し、奉げる姿はありません。ある人は、非常にケチって小銭から選んで投げます。礼拝で寝たり、騒いだりします。それは『礼拝』と『神』をあまり知らないからです。神様を知り、礼拝を知れば、私たちの礼拝の態度や姿勢は根本的に変わっていくはずです。

1.天地の創造主なる神様のみに拝む(集中)する時間

  では、もう一度質問します。礼拝とは何でしょうか。先ず、言葉通りの理解で言うならば、『天地の創造主なる神様を拝む行為』だと言えるでしょう。ここで『天地の造り主』がという言葉が使われていることに注目すべきです。預言者ヨナも『私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝して(恐れて)います。』と告白しています。即ち、これはこの天地の造り主以外の神を拝む行為は、真の礼拝ではなく、偶像崇拝に過ぎないことを教えています。それは、聖書が語る礼拝ではなく、単なる堕落した行為に過ぎません。礼拝は、真の神、天と地を造られた神様だけに奉げる行為です。ですから、礼拝は、この一つしかありません。礼拝は、真の神様に集中する時であり、行為なのです。他の神々が入る余地などありません。礼拝は、他の人と一緒に奉げるにしても自分と神様の一対一の関係であり、神様にのみ集中し、主を拝む時間です。

  ところが、私たちの心は色々と分散します。礼拝の時に、他のことやものに気が囚われてしまいます。主だけに集中して拝みません。色んなことに邪魔されて気が散ってしまいます。音や人や何かに心を囚われてしまいます。サタンは、私たちが神様にだけ集中して拝むことを妨げます。私たちが神様を拝むことを失敗させようとします。つまり、礼拝の失敗です。ルカの10:38-42でイエス様はマルタとマリヤのことを通してこの例をよく教えています。マリヤはイエス様に集中していましたが、マルタは気が散ってしまい、イライラしていました。

  礼拝の時は、全ての思い煩い、心配事、悩む事、やっている事は横に置いといて、先ず、天と地の造り主に集中しましょう。その語る御言葉に、教えに集中しましょう。礼拝は、先ず、このお方に集中して拝むことです!アーメン。

毎日デボ 詩篇128:1-6『I.礼拝とは何か』

都 上りの歌 幸いなことよ。すべて主を恐れ、 主の道を歩む者は。・・・4 見よ。主を恐れる人は、 確かに、このように祝福を受ける。(詩篇128:1-6)

2.神を礼拝することは、神を恐れること

  次に、礼拝とは神様を『恐れる』ことです。また逆に、神を恐れる人は、必ず神様を礼拝します。聖書でたくさん使われているへブル語『ヤレー(Yare』』という言葉は、恐れる、畏敬する、敬う、尊ぶ、仕える、礼拝するという意味を持っています。これは神様だけに使われているのではなく、人や状況にも使われている単語です。聖書の文脈の中では、『(神を)恐れる』と言う意味として日本語ではほとんど訳されていますが、前回見たようにヨナ1:9の新改訳第2版では恐れるという訳ではなく、『礼拝』という言葉で訳されたりもできます。即ち、礼拝と恐れるという言葉は同じ単語から状況によって訳し方が異なりますが、意味は、神を礼拝する=神を恐れる、と考えて良いです。

  今日の本文である詩篇128篇は、『都上りの歌』で記されているように、神の宮、即ち、神様を『恐れる』人たちが、神様を『礼拝する為に』神殿に上って行く時の賛美です。リチャードJ.クリフォード(Richard J. Clifford)は、1節と4節で語っている『主を恐れる者』とは、言うまでもなく『主に従って神殿で神を礼拝する者』と解釈しています。実際、聖書には『ヤレー』(日本語では恐れると訳されている)という言葉が『礼拝(または拝む)』と訳されても良い場面がたくさんあります(参照II列王記17:32、申命記14:23、詩篇22:22-26、145:19など)。

  結局、神様を恐れる人は、必ず神様に従って礼拝を奉げます。神を礼拝しない人は、神様を恐れない、敬わない、従わない、尊ばない人となります。ヤレーという言葉はこれらを全て含んでいるのです。神様を信じて恐れていると言いながら神様を心から礼拝しない人は結局自ら嘘をついていることになります。または、霊的な無知に陥っているのです。神様は、イスラエルの民に、神様を恐れることは天地創造の神を礼拝することであり、神を礼拝する者は神様を恐れることを学ぶべきことを繰り返し教えて下さいました(申命記14:23、Iサムエル12:24、詩篇31:19)。

  あなたの礼拝は本当に心から神様を恐れる姿に満ちていますか。ならば、あなたは真の礼拝者としての姿勢や態度があるはずです。神様を敬い、尊ぶ姿があなたの礼拝の態度や姿で実際現れます。礼拝はプログラムでも形でもありません。礼拝は、神様を恐れることであり、その姿があなたの祈る姿勢や賛美する姿勢、みことばを聞く態度や行動、そして言葉から現れるのです。神様に対する親しみを持つことは大変良い事ですが、それが生意気な態度や無礼な態度を許しているのではありません。

  ですから、私たちは聖書に習って、神様の御前で、礼拝に臨む際、カジュアルし過ぎた格好や足や腕を組んだ態度で、しかも椅子に背もたれしながら足も広く広げたり、のばしたり、居眠ったり、礼拝に遅れたりするのを習慣的にすることに注意し、止めましょう。大事で尊大な人の前でそんな態度を取る人はいないからでう。同様、私たちは誰の前に出て礼拝をしているのか、よくよく考え、これからの自分の礼拝の態度を一新し、神様を心から恐れる礼拝として奉げていきましょう。その人の未来は、今日の本文ではっきりと記されているように、自分も子孫も幸せになります。アーメン。

毎日デボ ローマ12:1『I.礼拝とは何かーその①』

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』(ローマ12:1

3.礼拝は、自分を献げること

礼拝は、自分を神様の御前に献げる時です。『献げる』と言われると私たちはとても嫌で違和感を覚える人もいるでしょう。ある人は、妄信的になることを恐れています。ある人は献身しなければならないのかと恐れます。しかし、自分を献げる礼拝の意味をよく理解すれば自分を献げるということがいかに恵みであり、祝福であるかを知るようになります。

創世記4章には、アダムとエバの子どもであるカインとアベル兄弟による礼拝が書かれています。二人は神様に献げものを持って来て献げましたが、弟アベルの献げものは受け入れられましたが、カインのは拒まれてしまいました。神様はカインの間違いと罪を指摘しましたが、カインは受け入れず、更なる悪を行ってしまい、神の恵みと祝福から外れてしまいました。

カインが拒まれた理由は二つありました。一つは、彼の献げものには血の贖いがありませんでした。彼は農夫でしたので、動物を飼うアベルから羊などを飼い、自分の罪の身代わりとして献げる贖いが必要でしたが、彼はそれをしませんでした。二つ目の理由は、彼はアベルと違って最上のものを神様に献げませんでした。彼は、あまりよくないものを神様に回し、献げました。それは、アベルが神様に自分自身を心から最上の状態で献げたのに対してカインはうわべと形だけ献げました。自分自身を最上のものとして献げなかったのです。

  • 神様は聖なるお方

では、なぜ自分を献げること、しかも最上の状態で献げることが恵みであり、祝福でしょうか。それは旧約時代のいけにえによる礼拝をみればよく分かります。先ず、旧新約時代問わず、罪ある者は神様の御前に進み出て行くことができません。神の御国へと入ることができません。ところが、神様の御前に行けないことは、神の御国へと行けないことであり、それは最悪の不幸となります。神様は聖なるお方です。神の聖さはあまりにも凄くて罪ある人間がその神様の御姿を見ると滅ぼされてしまいます。モーセが初めて神様の御姿の光を見た時、神様は何も知らず近づく彼に靴を脱ぐように警告されました。それは彼が自分の罪によってそして神様の聖さによって死ぬことがないためでした。モーセも恐ろしいあまり自分の顔を隠してしまいました(出エ3:1-6)。イザヤが神様の御姿にふれられた時、自分は滅びると思いました(イザヤ6:1-7)。イエス様は、きよい人が神を見ることをはっきりと宣言されました(マタイ5:8)。また、人は生れ変わらなかったら神の見ることも御国へ入ることもできないと語られました(ヨハネ3:1-15)。

私たちが神様の御前に出て行きたくても、また神様の御国へと入りたくても勝手にはできません。旧約時代、神様に献げれば何でも受け入れられたわけではなかったのです(創世記4:1-7、レビ記1:1-4)。神様に受け入れられる為には聖さが人にも必要でした。聖くなった人が神様に受け入れられ、祝福されました。

あなたはその聖さがどれほど大事か認識していますか。また、その聖い自分を神様に献げ受け入れられることがどれほど恵みか理解していますか。それをこれから更に学んでいきます。アーメン。

毎日デボ Iコリント6:19-20『I.礼拝とは何かーその2』

『あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』

  • 私たちは神様の聖なるものー神の所有権

礼拝は、自分自身を神様に献げることだと前回学びました。そして、献げる自分自身を聖く献げるべきであることをも学びました。聖くない人は聖なる神様に受け入れられないからです。神様に受け入れられることは祝福であり、恵みですが、いい加減に、罪の告白や悔い改めも無しに自分自身を献げることはできません。私たちは人にプレゼントをする時に、綺麗なものを、包装もせずに、汚いままで差し上げることは普通しません。失礼で無礼なことになります。しかし、そのプレゼントが相手に喜んで受け入れられたら自分も嬉しいはずです。神様は聖なる、きよいお方で私たちをきよめる為に主イエス・キリストをお与えになりました。イエス様の十字架の犠牲によって私たちは罪からきよめられ、聖なる者とされ、神様に受け入れられ、本来の豊かな人生を歩むことができるようになったのです。

さて、なぜ私たちは主に自分を献げるべきでしょうか。それは、私たちが神様の所有だからです。この地球や宇宙にあるものの中で人間のものは一つもありません。全てが創造主なる神様のものです。神様が造られ、神様の為に存在します(創世記1章、2章;コロサイ1:15-17)。自ら存在し、勝手に存在するものは何一つありません。本来元々存在しているとするならば、それは神様のものでも誰のものでもありません。しかし、そのようなものは存在しません。全知全能の神様が造られ、神様の為に存在しています。例えば、我々人間が作った物は人間の為に存在します。人間の為に用いられていきます。人間の手から、また管理から離れると無用になったり、廃墟になります。腐ります。もちろん、人間が作ってもペットや植物の為に使うものもあります。しかし、それらは全部その用途があります。人の所有権の下にあります。

同様に神様が造ったものも神様の為に存在し、用いられていきます。神様の支配の下にあって神様の守りの中にある時、本来あるべき姿で輝くことができます。ところが、自由意思を持った人は、それを拒みました。神様の所有権を否定し、自分自身の所有権を主張し始めました。そして、自分を自ら売られてサタンに渡してしまいました。罪(腐り)と堕落(廃墟)が始まったのです。そして、今日まで見ている通り、人は争いと騙しと偽りと殺しという罪と悪の世界を作り上げて来てしまったのです。そこには希望も愛も信頼もありません。

しかし、あわれみ深い神様は、そのような私たちの所有権を回復する為に神の御子イエス様を与えて下さいました。私たちの罪と悪の身代わりとして、即ち、その対価としてイエス様が十字架で死んで下さったのです。そして、私たちが自分の罪を認め、告白し、このお方を信じるだけで再び神の聖なる者、神の所有として回復できるようになったのです。ですから、誰でもキリストにある者はもはや悪魔のものではなく、神の聖なる者で、神様に自分自身を尊く献げることは当然のことです。

神様に自分自身を献げることは、そのお方に自分の人生を明け渡すことであり、委ねることです。聖なる全能者はそのような私たちを私たち以上に愛し、あわれみ、その計り知れない恵みの中で祝福して下さいます。今日も、私たち自身を悔い改めと感謝をもって主に献げていきましょう。主の御手にある者は強く守られ、豊かな人生を歩むことができます。アーメン!

レビ記には旧約時代にイスラエルの民は神様の御前で出て行くことが許されました。

毎日デボ レビ記23:3;申命記6:4-6『I。礼拝とは何か』

 今まで私たちは、礼拝について、①礼拝とは、時間を聖別し唯一で真の神の御前に出て神様だけに集中する時間、②創造主を心から恐れて拝むこと、③私たちを造られ、贖って下さった主に自分を聖く献げることだと学びました。今日は、4つ目、礼拝とは、全知全能で創造主なる神様からの御言葉を聞き、決心する時であることを学んで行きましょう。

六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。』(レビ記23:3

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。』(申命記6:4-6

4.礼拝とは、全知全能で創造主なる神様からの御言葉を聞き、決心する時。

 礼拝は、神様に心を集中すると同時に牧師やメッセンジャーを通して語られる神の御言葉に耳を傾ける時です。主は、私たちに心を尽くし、精神をつくし、力を尽くして主を愛するように命じておられますが、これは強制ではなく、心からすべきであることを教えています。普通、心から相手を愛する人は、相手の言葉に心から耳を傾けるのです。神様を愛する人、神を恐れる人は神のみことばに注意して耳を傾けます。礼拝は神様の御声を聞く時です。礼拝以外にもデボーションや聖書通読、黙想を通して御声を聞きますが、その出発点、原点は礼拝からです。礼拝にも来ないで神のみことばや御声を聞いていると主張する人は神様を侮る人か霊的に無知な人です。神の御心から大いに外れているのです。上記で見ているように旧約時代から、神の民は、安息日には全ての働きを休み、聖なる会合、即ち、礼拝を持ち、神の御声を聞きました。神のみことばを通して自分の1週間の歩みを振り返ることができ、反省したり、悔い改めたり、感謝したりできました。

  そして、何よりも御言葉を通して悔い改めるだけに終わるのではなく、新たな決心をすることができました。なぜなら、神様のみことばを聞くことによって神のみこころを知り、そして、自分の言動や態度、姿勢を知り、諭され、戒められ、新たな決断、決心をすることができるのです。神のみことばを聞きながらも悔い改め、決断、決心のない礼拝は大変無駄で無意味になってしまいます。半面、みことばを聞いて決断し、実行する人は祝福されます(ヤコブ1:19-25)。礼拝は、主の前に自分を献げる時だと言いました。それは決断、決心をも意味しています。神のみことばは、私たちを教え、戒め、矯正し、義の訓練をしてくださいます(IIテモテ3:16-17)。

もちろん、その為には聞く姿勢が必要です。神様に集中することは、主の語られるみことばに耳を心から傾けることです。色んな雑念、携帯、人との会話、子どもとの遊び、週報の報告やメッセージ、心配事などは横に置くか、主に委ねて、主のみことばに集中しましょう。居眠ることがないよう、十分前日睡眠を取り、居眠りが習慣化しないよう注意しましょう。聖なる神様の臨在の時、語る時です。誰も天皇の前で居眠ったり、よそ見したりしません。王に集中し、その語る声に耳を傾けるのです。我々の造り主、全能者、私たちを愛してやまないお方の御声に集中し、主の御心を知り、決断しましょう。そして、実行しましょう。その先には豊かな祝福の実が待っています。アーメン。

毎日デボ 創世記12:1-9『I。礼拝とは何かー神との交わり』

 今まで私たちは、礼拝とは、①真の神様だけに拝む時(集中すること)、②神様を恐れること、③神様に自分を聖く献げる時、④神のみことばを聞き、決断する時だと学びました。今日は、5つ目、礼拝とは、『創造主と交わる時』であることを学んでいきましょう。

 『彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。』(創世記12:8

 5.礼拝は、創造主なる神様との交わりの時

 礼拝は、私たちから一方的に神様に献げる行為ではありません。④番目で学んだように神様のみことばを聞き、決断すると共に、神様に自分の色んな思い、悩み、心境、心情、考え、計画、葛藤、痛み、苦しみなど何もかも全部申し上げながら『交わる』時です。神様との交わりの始まりは、礼拝からです。レビ記を見れば、罪を持つイスラエルの民が神の御前に罪を赦され、贖われ、聖められる為にいけにえの礼拝を通して神の御前に出ることができました。そこで彼らは罪を赦され、神様の祝福を回復することができました。彼らの歩みの中心は、全て礼拝から始まりました。それは今日においても同様です(ヨハネ4:23-24)。

神様は、人格的なお方です。私たちに自由意思をお与えになったお方です。その創造主が私たちと交わることを願っておられます。私たちは神様と共に歩み、共に交わるように造られた存在です。勝手に生きる存在でもなければ、神からほったらかしされている存在でもありません。神のように自由意思をもって人格体として造られた私たちは先ず神様と交わる存在として造られたのです。礼拝の中で神様との交わりを通して私たちは神の御声を聞き、御心を知り、自分の色んな思いや出来事を申し上げ(祈り)、戒め、励まし、力と祝福を受けるのです。

神様は、礼拝の中で臨在して下さいます(レビ記9:22-24)。神様は、アブラハムが献げる礼拝に臨在して下さいました。ここで注意すべきことがあります。礼拝は、デボーションなどを通して一人一対一で神様に献げる礼拝もあれば、神の家族と一緒に献げる礼拝があり、そのどちらも失ってはならないことです。アブラハムが神様に最初召されて礼拝を献げる時、彼には共に召された家族がいました(創世記12:4-5)。イスラエルの民は、一人だけで礼拝を献げたのではなく、共同体で礼拝を献げました。イエス様は、信じる群れを通して教会を建て(マタイ16:16-19)、共同体で献げる礼拝に共に臨在して下さいました(マタイ18:19-20、使徒2:1-13)。ここから更に、信徒同士の交わりに繋がっていくのです(使徒2:42-47)。

神様は、私たちが毎朝、毎日1対1でもつデボーションの礼拝で出会って下さいますが、同時に信仰の家族と共に献げる礼拝で臨在し、交わって下さいます(レビ記23:3)。旧約時代も新約時代も私たちは6日間の働きを終えて、愛する神の家族と共に神の御前に出て礼拝を献げることはともて大切なことです。ある人は、人といるのが好きでないからとか、一人でやるのが好きだからとか、家族だけで良いとかと言って皆で献げる礼拝を忌避したりしますが、それは、パウロがコロサイ教会の信徒たちに警告しているように、『人間の好き勝手な礼拝』になりかねません(コロサイ2:23)。たとえ、私たちが病気になって皆との礼拝に出れないことがあるにしても一緒に礼拝を献げることを大切し、慕い、祈り求めていく姿勢や態度が必要です。それが神様のみこころです(エペソ1:22-23、4:10-16)。

主に出会える礼拝、交われる礼拝は、真に幸いであり、光栄であり、祝福です。主との交わりを大切にし、喜び、楽しんでいきましょう。主も私たちを大切にし、赦し、受け入れ、きよめ、喜び、祝福して下さいます。アーメン!

毎日デボ 2サムエル6:12-23『礼拝とは何かー祝宴』

14 ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。・・18 ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、万軍の主の御名によって民を祝福した。19 そして民全部、イスラエルの群集全部に、男にも女にも、それぞれ、輪型のパン一個、なつめやしの菓子一個、干しぶどうの菓子一個を分け与えた。こうして民はみな、それぞれ自分の家に帰った。(2サムエル6:14-19)』

 6.礼拝は、祝宴

私たちが献げる礼拝は、祝宴です。礼拝は、厳粛なムードも必要ですが、同時に、神様がなされた恵み、今受けている恵み、これからの恵みを期待して喜び、楽しむ宴会のようなものです。それはこの世の人々が自己満足や自己陶酔してどんちゃん騒ぎするようなものではなく、神様がなされる恵みと祝福を喜び、感謝し、楽しむ時です。

礼拝には賛美があります。賛美は、神様を褒めたたえることです。リズムがあるものもあれば、ないものもあります。楽器を使う時もあれば、使わない時もあります。踊る時もあれば踊らない時もあります。旧約の時代、ダビデの時代にも既にタンバリンや竪琴で楽器を使い、神様を賛美していたり、踊ったりしていました。ダビデには4000人の聖歌隊がいるほどでした(1歴代誌25:1-7)。そして、ダビデ自身は神様の御前で思いっきり踊りました。王としての体面とか面目など構いませんでした。彼は一人の聖徒として、神の一人の子として、神の御前で喜んで踊りました。この世の人たちも宴会の時には皆喜んで楽しんで踊ります。ましては、クリスチャンたちは神の恵みにどうして喜びをもって踊らずにいられるでしょうか。ところが、私たちは恥ずかしがっています。人の目を気にします。文化や習慣のせいにします。王であるダビデを大衆の前で躍らせるほど神様の恵みは大きいものでしたが、イエス様の十字架の恵みはどんな恥ずかしがりやでも躍らせるほど感動的で計り知れないものです。私は、いつか教会のメンバー全員と礼拝の賛美で主の恵みに感謝して思いっきり踊る日がくればと願っています。私自身も恥ずかしがりやだからです。

さて、礼拝は、単なる宴会ではなく、祝宴です。神様の祝福があるからです(創世記2:1-3)。礼拝の最後に祝祷があります。旧約の時代、祭司たちは民たちが献げる礼拝で民たちを祝福しました(民数記6:22-27)。王たちも民たちを祝福しました。礼拝では神様の祝福が宣言されます。聖徒たちはそれをアーメンとして応えます(申命記27:26、ネヘミヤ8:5-12)。礼拝では、神様のみことばとキリストの血塩により、赦しがあり、贖いがあり、とりなしがあり、祈りがあり、和解があります。一つ一つが祝福です。互いに喜び、互いに励まし、互いに慰め、互いに仕え、互いに感謝し、互いに祝福します。

礼拝は、祝宴です。主がなされた恵みを感謝し、喜び、賛美し、祝福される時です。この恵みの礼拝を心から重んじ大事にする人は幸いです。アーメン。

毎日デボ イザヤ43:1-28『II。なぜこの神様を礼拝すべきか』

  今まで私たちは、礼拝とは、①真の神様だけに拝む時(集中すること)、②神様を恐れること、③神様に自分を聖く献げる時、④神のみことばを聞き、決断する時、⑤創造主なる神様と交わる時、⑥神様と私たちの祝宴であることを学びました。今日からは、では、なぜ私たちはこの神様だけを礼拝すべきかについて学んでいきましょう。

『初めに、神が天と地を創造した。』創世記1:1

3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。5 それらを拝んではならない。( 出エ20:3-5)』

1.この神様が唯一で全ての創造主だから

  旧約聖書は、私たちが『ヤフェ』という名を持つ神様だけを礼拝するよう命じています。他のものを拝むことは許されていません。新旧約聖書全体を通して私たちが三位一体(⇒この部分に関しては『神』について学ぶ時言及します)の神様を礼拝する第一の理由は、このお方が全宇宙とそこに存在する全てのものを造られた唯一で真の創造主なる神様だからです。創世記から見ているように初めに世界を造られる神様が登場しますが、八百万の神々ではなく、『ヤフェ(エホバー自らおられる存在という意味)』、『Elohim(エロヒム:神)』、『アドナイ(主)』という名前を持つ神様が登場します。これらの名前はそれぞれ別の神々を表しているのではなく、同じひとりの神様のことを指しています。

  『初めに』というのは、宇宙の始まり、地球の誕生、世界の始まり、人間歴史の始まりを表しています。これら全てがこのお方によって始まっています。日本でも新元号が2019年5月1日(水)に始まりますが、新しい王の始まりだからです。皆がかけづけて礼拝まではしないが、新しい王の誕生と新しい歴史の始まりである王を中心に皆がお祝いします。別の王をお祝いするのではありません。新元号の王に対してです。同様に、この世界を造られ、始めさせた真の神様を礼拝するのは当然のことです。この創造のみわざに他加わった神は存在しません。預言者イザヤを通して神様は次のように語っておられます。

  だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。・・・わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。・・・わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。・・・わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかった。』(イザヤ43:1、7、10、11、12

  礼拝は、この創造主を祝うのです。他の神を祝ってはおかしな話だけでなく、罪であり、悪となります。存在もしないし、我々を造ってもない偶像のものを拝むことはあり得ないことだからです。毎日のデボーション、毎週の礼拝、私たちは私たちを造られ、更に、私たちの罪ある人生をイエス・キリストにあって全く新しく造って下さる創造主を礼拝するのは当然ではありませんか。アーメン。(続く)

毎日デボ イザヤ43:1-28『II。なぜこの神様を礼拝すべきか』

15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 (コロサイ1:15-17)

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』(ピリピ2:10-11

(続き)私たちが神様を礼拝する理由は、『神様が私たちの創造主だから礼拝する』ことを学びました。このお方が全宇宙を造られ、秩序を与え、その中で地球とその環境を造られ、更に植物、動物、人間を、その種類別に造られた事実は、被造物である私たちがこのお方を礼拝するに値します。私たちは、自分で作った偶像を拝んではいけません。人や動物や自然を拝んでもいけません。同じ被造物だからです。また、有りもしない、存在もしない虚像を拝んではいけません。それは虚しいことであり、罪です。私たちは、私たちを造られた創造主を拝むべきです。

  さて、聖書は、私たちの創造主は、父、御子、御霊なる三位一体の神様であることを教え、このお方を礼拝すべきであることを教えています。特に、人として来られたイエス・キリストを礼拝することは聖書にもよく書かれています(黙示録4,5章)。使徒パウロは、御子イエス様がどんなお方なのかをよく説明しています。御子は、単なる人ではなく、父と同じく創造者であることをはっきりと語っています。人として来られる前に神であり、創造者だったことを教えています(ヨハネ1:1-14)。もし、それが嘘だったならばキリストは人を癒し、生き返らせるようなみわざを行うことができなかったでしょう。というのも神様は偽り者の祈りは聞かれないからです(ヨハネ9:31-33)。

  しかし、私たちを罪から、病から、死から、さばきから、悪魔から解放する為に人となって来られたイエス様は、創造主です。だから私たちは黙示録で見ているように、また、パウロがピリピの信徒たちに教えているように、イエス様を礼拝し、その御名を賛美するのです。私たちは、このお方によって救われる前から、このお方によって造られ、このお方の為に存在する者です。このお方はこの世を誕生させたお方、昔いまし、今いまし、やがて来られる創造主です(黙示録1:8)。このお方がご自分の民である私たちを愛し、あわれみ、いつくしみ、赦し、恵んでくださり、いのちを与えて下さったのです。ですから、パウロが言っているように、全ての者が膝をかがめ、このお方を礼拝するのは当然のことです。

  私たちを産み、育て、愛して下さる親を敬うことは当然のことです。ならば、私たちを創造し、愛して止まないお方を礼拝することは当然のことであり、恵みです。この創造主を礼拝することは、義務的ではなく自発的であり、責任のゆえではなく感謝のゆえであり、儀式ではなく秩序のある祝宴です。私たちの礼拝は、怖い神が君臨する物々しい時間ではなく、愛に満ちた創造主が臨在する祝福と恵みに満ちたの時間です。

  この礼拝を大切にし、喜んで創造主なる主に御前に出ていきましょう。アーメン。

コロサイ1:

詩篇8篇、139篇:

毎日デボ イザヤ43:1-28『II。なぜこの神様を礼拝すべきか』

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。・・・わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。』(イザヤ43:4、11)

  今まで、私たちは礼拝とは何かについて学んで来ました。そして、前回は、なぜ私たちはこの神様を礼拝すべきかについて学びました。その第一に、この神様が唯一で真の創造主だからと学びました。今日は、第二に、『この神様が私たちを救い、祝福するお方』であることを学んでいきましょう。

2.この神様が私たちを救い、祝福するお方だから

  かつてイスラエルの民は、エジプトで奴隷生活を400年も強いられて、虐げられていました。彼らは自分たちの力で独立し、自由になることができませんでした。その彼らを神様はモーセというリーダーを立てて彼らをその縄目から解放して下さいました。その際、神様はエジプトには10回に渡る災いを与えました。そして、イスラエルの民を奴隷から解放するにあたって欠けたところのない羊やヤギを屠り、民たちの家の門柱やかもいに塗ることにより、彼らを罪と咎からきよめ、彼らがさばきに遭う事がないようにしてくださいました。この時のことを『過ぎ越し』と言いますが、イスラエルの民は、この血の贖いによって実際解放されるようになりました。

  これは、やがて神様がイエス・キリストを通して行おうとする人類の為の救いの青写真でした。人類は、堕落した以来、ずっと罪の鎖に縛られて罪の奴隷、悪魔の奴隷状態にありました。人類は堕落し、神から離れ、真の神を礼拝するのではなく、偶像や悪魔を拝むようになりました。また、人を拝むようになりました。人は、物を拝むようになりました。ある人は思想や哲学を拝むようになりました。人は、自分を救うところか、滅びへと導くものに全てを囚われ、それらの虜になってしまいました。

  ところが、偶像礼拝は、単に目に見える偶像を拝むだけが偶像礼拝ではありません。偶像礼拝は、神のみことばや御心から離れそむくことも偶像礼拝です(Iサムエル15:1-23)。サムエルの時代、サウロ王は直接偶像を拝んでないものの、神様のみことばにことごとく背き、自分の身に滅びを招いてしまいました。また、使徒パウロは、不品行、汚れ、むさぼりはそのまま偶像崇拝に値するとはっきりと指摘しました。これらを行う者は救われて、神の御国を受け継ぐところか、神のさばきを受けることになると警告しました(エペソ5:5-7)。

  私たちは、私たちを罪、悪、病、死、悪魔、さばきから救い、神の御国へと導き、相続させ、祝福して下さる主を礼拝します。私たちを愛し、慈しみ、恵みを与えて下さる主、それを十字架の死と復活を通して確実にし、救って下さるこのお方を私たちは礼拝します。このお方は私たちの全能者、創造者、礼拝さえるに十分値する救い主です。アーメン。

毎日デボ マタイ28:17-20『II。なぜこの神様を礼拝すべきか』

17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイ28:17-20)

 私たちが神様を礼拝する理由は、①このお方が私たちの創造主だから、②このお方が私たちを罪と死とさばきと悪魔から救って下さる唯一で真の主だから、そして、③このお方が全ての主権者、所有者だからです。

3.この神様が全ての主権者だから

 創造主なる神は、一度もご自身の主権と所有権を悪魔や他のものに奪われたことはありません。また、渡したこともありません。悪魔であるサタンは、決して主からその主権と所有権を奪うことができません。私たち人間も同様です。神の主権は常に神に属し、永遠に属しています。この宇宙、この地球、この世界、この国、この町、この家族、この私。全てが神の所有であり、神の主権の下にいます。

神様が世界を創造された時、神様は人にこの世界を支配する権威をお与えになりました。所有権も認めて下さいました。しかし、それらが有効であるのは、神の主権と所有権を認める時です。それを否定すると人間の主権と所有権も否定することになります。それは、こう考えれば分かりやすいです。あなたは、日本の国籍をもって日本の憲法と法律の下で守られています。あなたの主権と所有権は日本の国が定めた憲法と法律に基づくものです。もし、それを否定すると、あなたはあなた自身の主権と所有権、全てを否定することになります。あなたを守ってあげれる権威がなくなります。日本の国があってあなたがいます。

同様、神の主権があって私たちの主権があるのです。神様は、人にそれを許して下さっています。しかし、サタンには許しておられません。サタンは、人を妬み、人のものを自分の傘下にしようと嘘と偽りを語ります。『全てのものはあなたのものだ』と。それに、アダムとエバも騙されてしまいました。そして、全ての権利を失ってしまいました。私たちの主権と所有権は、神様の主権と所有権を認める中で有効です。

一つ、注意すべきなのは、偶像崇拝です。偶像は、何の主権も所有権もありません。命のないものです。なのに、偶像を拝むことはおかしな行動です。偶像は、話すことも考えることも動くこともできません。私たちの全能者は、人が作ったものに宿るようなちっぽけな神ではありません。

我々が礼拝すべきお方は、ただおひとりだけです。礼拝されるべきお方は父、御子、御霊となる、三位一体の神のみです。私たちの全能者、創造者、このお方に主権があり、所有権があるからです。このお方が私たちを贖い、癒し、祝福し、愛して下さるのです。アーメン。

毎日デボ レビ記1章『III. 礼拝の祝福とは何か』

2 「イスラエル人に告げて言え。 もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。3 もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、彼が主の前に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。4 その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。(レビ記1:2-4)

私たちは、今までI.礼拝とは何か、II.なぜこの神様に礼拝をささげるべきか、について学びました。今日からは、第III『礼拝の祝福とは何か』について学んでいきましょう。礼拝は、単なる宗教儀式ではありません。礼拝は、私たち被造物がまことの造り主であり、全能者である神様を崇める当然の行為ですが、この礼拝には素晴らしい祝福がいっぱいあります。

 I.罪の赦しと贖いがあり、きよめられる祝福。

人は、罪があっては神の御国へ入ることができません。罪があるままでは祈りも聞かれません。罪があっては、死と死後にさばきを受けることしかありません。罪があっては神の与えるあらゆる祝福を受けることができません。罪は、私たちのあらゆる幸いと幸せを邪魔します。罪は、私たちの人生を蝕みます。罪は、私たちを躓かせ、ますます不幸な人生へと陥れます。罪は、泥沼のようなものです。一度陥ってしまうと中々出れなくなり、動けなくなります。ところが、罪は甘い所があります。非常に香ばしく、楽しませるところがあります。だから、一度陥ると中々出れません。その行き着く所は、さばきと地獄です。

しかし、そこから脱出し、義の道に導いていくのが礼拝の祝福です。なぜなら、礼拝には、神のみことばがあり、罪の贖いと赦し、きよめられるチャンスがあるからです。もちろん、自動的にではありません。礼拝に参加すれば、自動的に罪が赦され、きよめられるということではありません。罪の告白が必要です。礼拝は、神の御前に出ることですから、主の御前で自分の重荷だけでなく(マタイ11:28-30;ピリピ4:6-8)、自分の罪をも告白するのです(Iヨハネ1:9)。すると、神様は、イエスキリストのなされた尊い十字架の犠牲とその恵みにより私たちの全ての罪を赦し、きよめてくださいます。

これは、素晴らしい恵みであり、祝福です。私たちは自分の努力や行いによって罪の赦しをいただくことはできません(エペソ2:8-9)。私たちの努力によって罪が赦されるならばイエス様が十字架で死なれる必要はなかったでしょう。しかし、罪はそう簡単ではありません。私たちは大変な罪人であり、その罪は極めて大きい、重いものです。それをイエス様が赦して下さったのです。旧約時代には、羊やヤギや牛などが殺されて、人の罪が赦される道が開かれていましたが、それは限界のあるもので、やがて来られて行うキリストの型でした(へブル9:1-28)。

礼拝には羊や牛などの動物の血ではなく、キリストの尊い血が流れています。教会はキリストの十字架によって建てられ、十字架によって大胆に神の御前に出れる礼拝が許されています。ですから、礼拝で自分の罪を悔い改めましょう。正直に隠すことなく、罪を告白し、罪の赦しと贖いをいただきましょう。礼拝は、あなたと私がきよめられる大切な祝福の時間です。アーメン。

毎日デボ イザヤ38:1-22『III. 礼拝の祝福とは何か』

そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、3 言った。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

 4 そのとき、イザヤに次のような主のことばがあった。5 「行って、ヒゼキヤに告げよ。 あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。 (イザヤ38:1-5)

 2.癒される祝福

礼拝が与える祝福の二つ目は、主の癒しです。イエス様は、次のように語られました。

28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)

 私たちは、精神的に、肉体的に、霊的に疲れているからこそ神様が臨在する礼拝に、癒していただく為に出て行くのです。病人は、病院へ行くべきです。休んでほったらかしてはなりません。治療がないと拗れてもっとひどく悪化します。イエス様は、私たちに主の御前に来るように語っています。礼拝は主が臨在する場所です。主が臨在する時です。主が語られたように、私たちは肉体の病気も、精神的な病気も、霊的な病気も全て主に癒される為に出て行くのです。実際、福音書を見ると多くの者が主に癒される為に主の御前に行きました。そして、あらゆる病気の人や悪霊に取りつかれた人たちが癒されました。

 教会は、いっさいを満たす方のいっさいが満ちている所です(エペソ1:22-23)。そこで私たちは礼拝をささげます。そこで主は、私たちを祝福して下さいます。もちろん、教会での礼拝だけが礼拝ではありません。日々の生活も重要です。しかし、出発点は、主のからだなる教会の礼拝からです。それを無視したり、軽んじたり、無知のゆえに生じる礼拝警視は、多くの人々が犯している過ちです。教会の礼拝生活が健全に行われず、癒しばかり求めることは主の教えと望んでいることとは大きくずれています。

 主は、全て、疲れた人はわたしの所へ来なさいと、語っておられます。主の所はどこでしょうか。旧約時代は、主の宮でした。そこが中心でした。イスラエルの民は、主の神殿を中心に生きました。主がそこに臨在したからです。病気になったヒゼキヤは主への礼拝、そこでの祈りを通して癒される体験をしました。預言者サムエルの母、ハンナは主の宮でささげる礼拝と祈りによって素晴らしい預言者、大指導者サムエルを授かりました(Iサムエル1章)。

 物理的に来れない時もあります。しかし、イエス様に癒してもらう為に、必死に来ていた人々を思い起こして下さい。礼拝が生きている人は、癒しを経験することができます。主は、癒し主です。主への礼拝、主の礼拝を大切にし、主の癒しを期待しましょう。求めましょう。主は、私たちの心を、病を、傷を必ず、癒して下さいます。アーメン。

傷だらけの私たち、弱い私たちたち

旧約時代、聖なる神様は罪を犯し、汚れた者となり、神と神の聖なる御国へ入れない民たちの為に、罪が贖われ、赦され、きよめられる方法を与えて下さいました。それは人類の最初の人間アダムとエバが堕落した時以来一貫して教え、示す方法であり、道でした(創世記3:1-21)。罪がある人間は、もはや聖なる地エデンに居続けることができませんでした。彼らはそこから追放されました。

エデンの園と約束の地カナンは神の聖なる御国の型であり、象徴です。

毎日デボ マタイ11:28-30『III.礼拝の祝福とは何か』

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30

 礼拝は神様から与えられた祝福です。私たちは礼拝に出ることは単なる義務ではなく、特権であり、恵みであることを知る必要があります。神様を信じたから義務と責任で礼拝をささげるならば、やがて礼拝は重荷となり、形だけのものになります。私たちが神様を礼拝することの祝福は、①あらゆる罪が赦される、②心の傷や病が癒されることを学びました。礼拝の祝福の3つ目は、上記のイエス様のみことばでもあるように、主の教え、戒め、約束、祝福を学ぶことができるということです。

 3.主から学ぶ祝福

 私たちの主権者、全能の神、救い主であるイエス様は、疲れた人、重荷を負っている人、どんな人にであれ、『すべて』の人に声をかけておられます。『わたしのところに来なさい』と。主が私たちの病を癒し、心の傷を癒し、重荷を身代りに背負って下さるだけでなく、優しく、謙った姿勢で教え、戒め、リードしてくださると約束しておられます。主は、大変心の優しいお方です。慈しみとあわれみに富んでおられるお方です。常に私たちを愛し、心配し、励まし、慰め、支えて下さるお方です。

 もちろん、お叱りの時もあります。悪いことをしているのに、優しく見ぬふりをするお方ではありません。直接、聖書のみことばを通して、牧師や信仰深い兄姉を通して、聖霊様が私たちの心に語ることを通して、ある状況を通して主は、私たちを戒め、教えて下さいます。その基本は礼拝です。礼拝では主のみことば、神のみことば宣言されます。そこで私たちは注意して主のみことばを聴き、主のみこころを知ることができます。

 礼拝も行かず、自分1人又は家族だけで礼拝し続ける者は神様を侮ることになります。神様のみこころに反することを行なうことになります。一人善がりの者になってしまいます。主は、旧約時代は幕屋を中心にささげる礼拝に臨在して下さいました。イスラエルの民は共に集まって主を礼拝し、みことばを聞きました(ネヘミヤ8:1-8)。新約時代に生きている私たちにもこの真理は変わりありません(ヘブル10:25)。私たちは共に集まって主の御声、みことばを聞き、諭され、教えられます。

 主のみことばは生きていて力があります。両刃の剣より鋭いので私たちの全ての悪いところを取り除き、手術して下さいます(ヘブル4:12-13)。私たちに正しい道、祝福の道を教え、間違ったところを指摘して戒め、それを矯正し、継続してきよく正しく歩めるよう義の訓練を行って下さいます(2テモテ3:16))。これらの出発点は礼拝からです。(勿論、学びは礼拝だけで十分でないことにも注意しましょう!)礼拝に臨む時、主のみことばを心から慕い求め、居眠ることなく、心血を注ぎ、耳を傾けて、一生懸命に聞き、悟り、それに生きようとする者は幸いです。というのは、その人は主の約束のように30倍、60倍、100倍、あるいはそれ以上の実を結ぶことができます(ルカ8:1-15)。

 主の教えはどんな金銀にもまさるものです(詩篇119:72)。毎週の聖日の礼拝、水曜又は木曜礼拝、又は主の何よって行われる様々な礼拝に、みことばの教えを慕い求めて望んでいきましょう。主があなたをそのみことばの約束をもって祝福して下さいますように。アーメン。

毎日デボ 創世記4:1-16『IV.礼拝をどのようにささげるべきか』

3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(創世記4:3-5)

 私たちは、今まで礼拝とは何かについて学びました。そして、礼拝はなぜささげるべきか、と、礼拝の祝福について学びました。ここまでの学びを通して私たちは礼拝が被造物で罪深い者である私たちにとって必要不可欠であることを知りました。礼拝は被造物から創造主である神様へのアプローチであり、神様から私たちへの祝福の道であることを学びました。礼拝が生きている人は活力があります。礼拝が生きている人はますます神の祝福に預かり、礼拝がない人はますます神様の祝福から遠ざかってしまいます。礼拝は、私たちが罪赦され、癒され、和解され、贖われる場です。

では、そのような礼拝を私たちはどうささげるべきでしょうか。単に教会に行けば良いでしょうか。教会のプログラムに従って賛美と祈りをささげれば、みことばを聞き、献金をささげればそれで礼拝はOKでしょうか。この問いに関する大切な答えが創世記4章で、カインとアベル兄弟の礼拝から学ぶことができます。聖書はアダムとエバがささげた礼拝より、この二人の息子らがささげた礼拝について最初に言及しています。聖書の記事は、弟アベルの礼拝は受け入れられましたが、カインのは拒まれたことを指摘しています。なぜでしょうか。一体どんな問題があったのでしょうか。では、彼らがささげた礼拝を通して私たちがどう礼拝をささげるべきかを学んでいきましょう。

1.礼拝には、キリストの血が必要である。

 旧約時代、イスラエルの民が救われる為に必要だったのは、欠陥のない羊ややぎの血でした。イスラエルの民は、エジプトの奴隷時代、神様の素晴らしい、恐ろしい奇跡によってエジプトから解放されたのではありませんでした。エジプトの王パラオは恐るべき災いを食らってもますます頑なになり、イスラエルの民を解放しようとしませんでした。しかし、羊ややぎが屠られた時、パラオはイスラエルの民を解放せざるを得ませんでした(出エ12章)。とうてい彼らを拘束することがもはやできなくなりました。神の民イスラエルには命の贖いが行われ、悪魔のようなパラオとその民たちには命のさばきが下されたからです。

 これは象徴です。悪魔と罪と死と病という敵に対して小羊なるキリストの血が上記の奴隷となっている私たちをこれらの敵から解放することの模型です(へブル9:24)。血を注ぐことがなければ罪の赦しはありません(へブル9:22)。この教えは、人類が既に堕落し始めたカインとアベルの時代まで遡るのです。カインは農業、アベルは牧畜が仕事でした。二人は、礼拝の時期になるとそれぞれが持っているものを持って来て主に礼拝をささげました。その時がアベルは羊を屠って血を注ぎ、贖いを受けましたが、カインはそれをしませんでした。なぜ、それが分かるかと言うと、レビ記でも見られるように、どんないけにえによる礼拝でも血の注ぎによる贖いあり、もし、それがなかったら罪の赦しはなく、神様に受け入れられなかったからです。カインは礼拝は残念ながら受け入れられませんでした。彼はアベルから羊を飼って屠り、血を注ぎ、贖われる必要がありました。しかし、彼はそうしませんでした。彼の罪はそのまま残っていました。

 私たちの礼拝にはキリストの尊い血による贖いが必要です。十字架の死が無駄になるような、軽んじられるような礼拝は受け入れられません。あなたの礼拝はキリストの十字架の血が尊ばれていますか。その恵みが重んじられて意識してイエス様の血による贖いに感謝をささげていますか。創世記から黙示録まで礼拝に尊い血が流されています。あなたのデボーション、教会でささげる礼拝にはキリストの血が流れていますか。それを意識、感謝していますか。罪の悔い改めとその赦しはこのキリストの血によるものです。それを忘れてはいけません。

キリストの血が流れる礼拝には、癒しがあり、赦しがあり、回復があり、雪のようなきよさがあり、力があります。そこには永遠のいのちと祝福があります。アーメン。

毎日デボ 創世記4:1-16『IV.礼拝をどのようにささげるべきか』

3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(創世記4:3-5)

 前回、私たちは礼拝には、キリストの血が流れることを学びました。旧約時代にはいけにえをささげる礼拝で罪の赦しと贖いと聖めの為に羊の血が流されました(参照レビ記1—4章)。それを小羊として来られたイエス・キリストはご自身のからだとその流された血をもって完全に全てを成し遂げて下さいました(へブル9:18-28)。ですから、今私たちの礼拝には十字架にかけられ、血を流し、死なれ、よみがえられたイエス様が常に共にいます。イエス様によって私たちは聖なる神様に近づくことができ(ヨハネ14:6)、罪が赦され、贖われ、聖められ、祝福されます。旧約時代のように動物をささげる必要はありません。異邦人たちがするように供養することもありません。キリストの血で十分です。キリスト・イエスを心から信じ、その十字架の恵みを受け入れ、感謝し、悔い改め、罪から離れようと祈り求めることから日々新しくされ、成長していくことができます。この十字架にかかり、血を流し、私たちの為に死んで下さったキリスト・イエス様抜きに礼拝は成立しません。

  さて、礼拝に次に必要なのは、最上のささげものです。

 2.最上のものを備えてささげるーその①

創世記4章でカインとアベルの態度や姿勢から見られるように、アベルは、自分の収穫の物から最上の物を用意して神様にささげました。しかし、カインはそうではありませんでした。彼らは二人とも神様が与えて下さった土地や動物を用いて、育て、素晴らしい収穫をすることが出来ました。そして、二人ともその中から10分の1と他の奉納物を感謝の現わしとして神の前に持って来ました。

 ところが、二人のささげる物は、それぞれの職業が異なるから、内容も異なっていましたが、最も異なっていたのは、神様に対する彼らの姿勢と態度、心と思いでした。アベルは、本当に神様を恐れ、感謝し、愛していました。彼は良くして下さる神様に、羊の中から最上のものを選び、ささげることによって、心から自分の感謝を精一杯表しました。しかし、カインは、適当でした。いい加減でした。彼は普通ところか、収穫から悪いものを選び、しかも少しだけささげました。彼は神様を軽んじ、侮り、なめていました。神様は、そのようなカインの間違ったささげものと彼に目を留めませんでした。しかし、アベルのには目を留め、受け入れて下さいました。

  あなたはどうでしょうか。あなたは礼拝にあなた自身を最上の状態で、また、献金を祈りをもって、更に委ねられている奉仕を、最上の状態で備えてささげているでしょうか。それとも適当でいい加減にささげているでしょうか。私たちの礼拝はこのカインとアベルのように大きく二つの姿に分かれます。ある人は十字架の赦しと犠牲の恵みがあまりにもありがたくて心から最上の自分、献金、奉仕を用意してささげます。しかし、ある人はこの恵みをそれほど悟らず、適当に、習慣的に、慣性的に礼拝とささげものをささげる人もいます。

  キリストの十字架の恵みは私たちにとって最高のプレゼントであり、祝福です。その他、私たちが持っている全ては主の恵みによるものです。それらを値なしで受けているのですから、主に最上のものを備えてささげることは当然ではありませんか。そのような礼拝をささげる人は幸いです。アーメン。

毎日デボ 創世記4:1-16『IV.礼拝をどのようにささげるべきか』

3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(創世記4:3-5)

2.最上のものを備えてささげるーその②

前回に続いて礼拝をどのようにささげるべきかー『最上のものを備えてささげるーその②』、について学びましょう。

 創世記でカインとアベル兄弟は、神様に礼拝する際、ささげものを持って来ましたが、二人のささげたものへの評価は全く異なるものでした。それは内容というより、彼らの姿勢と態度から来るものでした。聖書は、カインについて、普通に『地の作物から主へのささげ物を持って来た』と、言っています。この言葉には、彼のささげ物について何の良い修飾語も付いていません。単純に、持って来たという事実だけ書かれています。そして、その結果は、彼も彼のささげ物も受け入れてもらえなかったことでした。それはカインのささげ物に問題があったことを暗示しています。しかし、アベルに関しては、『羊の中』、それも『初子の中から、それも最上のものを持って来た』と、二つの修飾語(初子、最上のもの)が付いて表現されています。その結果、主はアベルとそのささげ物とに目を留められたと記録しています。

  上記で言及したように、これは神様に対するカインとアベルの姿勢と態度の違いを明らかにしています。カインは、神様の恵みに対してそれほど大事に思っていなかった反面、アベルは神様の恵みに感謝していたし、神様を心から敬っていました。これは、私たちが大事にし、愛して尊敬する人に対する姿と、そうでない人に対する態度からも明らかに分かります。私たちは、自分にとって大事な人、えらい人、愛して好きな人、尊敬する人、自分によくして下さった人には最高のプレゼントを贈ろうとします。高い物でも無理して買って送ったりします。心から尊愛するからです。しかし、そうでない人にはそこまでしません。適当に、付き合い程度にします。心もあまり伴いません。あまり大切でない人にはえらそうにしたり、ギフトも安いものに留まります。心から尊愛してないからです。

 その態度や姿勢は神様に対しても同様です。父なる神、十字架の御子イエス様の御前で自分の罪深さとそれを赦してもらう恵みの大きさを心から知り、感謝する人は、その感謝の現われも異なってきます。実際、これらのことに関して良い実話が載っています(ルカ7:36-50)。イエス様がシモンと言うあるパリサイ人の家に招かれて入った時に、彼はイエス様の為に、手足を洗う水も出さず、口づけもしませんでしたが、その町の罪深い女は自分の涙でイエス様の足をぬらし、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗りました。イエス様は、彼とその女の行動の差は、神とイエス様がどんなお方かについての理解と、自分たちが受けている恵みがどれほどのものなのかを心から感謝しているかどうか、その差にあると指摘しました(ルカ7:47)。人々は彼女を無視又は差別、軽蔑していましたが、イエス様は彼女の礼拝を受け入れて下さいました。彼女は、心から自分の力以上に主のため、惜しみなく感謝を表したのです。

 では、あなたはどうでしょうか。毎週の礼拝が習慣的で、自分の為の礼拝になっているでしょうか。マンネリ化して自分の心の寄り所、安心の為に出席しているでしょうか。それとも主を心から愛し、敬い、恐れ、感謝して出ているでしょうか。献金と態度と服装は、『最上』の状態で備えて臨んでいるでしょうか。それとも、普段より落ちているでしょうか。人に出会う時より、気軽く、キャジュアル過ぎになっていませんか。あなたは誰に出会いに行っているでしょうか。全能なる神、恐るべき神、聖なる神に出会う意味を心から理解しているでしょうか。

今、もう一度自分の礼拝の態度や姿を省みましょう。礼拝は義務的に、責任感で、又は自分の利益の為にささげることではありません。聖なる全能者が私たちによくして下さった恵みがあまりにも大きくて、それが本当に嬉しくて、それに感謝して、心から喜んで、『最上』の自分とささげ物を備えて御前に出て行きましょう。主が我々の礼拝を受け入れ、一人一人を祝福して下さいますように。アーメン。

毎日デボ ローマ12章『IV.礼拝をどのようにささげるべきか』

 今、私たちは礼拝をどのようにささげるべきかについて学んでいます。礼拝で私たちは旧約時代のように動物によるいけにえではなく、キリストの血による贖いが必要であることを学びました。即ち、礼拝ではキリストの十字架抜きにささげることができません。私たちの礼拝には、キリストの十字架の恵みが必ずあるあるし、それを語り、それを受け入れることが何よりも大事です。そして私たちは礼拝に最上のものを備えて主にささげることが大事であることを学びました。献金にしろ、自分の姿にしろ、聖なる神、全能者である素晴らしい神様の御前に出る自分の態度や姿勢がいい加減になっては失礼千万です。

  ところが、これらに加えてもっとも大切なことの一つは、あなた自身を神様にきよく、受け入れられるよう心の一新によって自分をささげることです。

3.心の一新によって自分をささげる

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:1-2)』

 私たちの礼拝が神様に受け入れられ、祝福されるために必要なのは、瞬間瞬間自分の心を新たにして主にささげることです。昨日より、先より、自分の心を一新するのです。古い自分ではなく、新しい自分をささげることです。では、どのようにするのが自分の心を一新することでしょうか。それは、礼拝がマンネリ化しないことです。礼拝が単なる習慣的にならないことです。自分が神様にささげる礼拝が常に新鮮な気持ち、心、態度でささげられることです。

 では、どうでしょうか。自分の礼拝は新鮮な気持ち、態度になっているでしょうか。プログラムに依存していませんか。新しい賛美があれば、特別なメッセンジャーが来るから新しい礼拝になるのではありません。新しい楽器、新しい会堂、新しい道具を使うから新しい心になるのではありません。それは長続きしません。そのようなものに頼れば、それが無くなった時は、どうでしょうか。古い楽器、古い建物、古いプログラム、古くから牧会している牧師。これらでは心の一新にならないのでしょうか。ならば、それはその人がこれらに依存して礼拝している証拠となります。

 心の一新は、先ず自分の心と姿勢の問題です。周りのせいではありません。自分から神の御前に出て、イエス様の十字架の血によっていつも心を一新することができます。主は、私たちの祈り、願い、求めに応えて心を一新して下さいます。そして、更に、自分の今日の礼拝を新しい気持ち、新しい姿勢、新しい心でささげるのです。もちろん、この際、この世のことと調子を合わせてはいけません。それはせっかく一新した私たちの心を乱し、新しくするところか、逆に濁らせてしまいます。誘惑に陥り、罪を犯させてしまいます。すると、その人は、 神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る』ことができなくなります。しかし、今日も自分の歩み、礼拝に心を一新して臨む者は、主のみこころを知り、行なうことができます。

 礼拝は、祝福です。主からの恵みです。全能者、創造主なる神、聖なる御方にささげるものであり、この素晴らしい御方に出会う時です。それがマンネリ化したり、形骸化したり、習慣的になったりしないよう気をつけましょう。ぼっと献げる礼拝は危険です。居眠りが習慣化した人は心を一新する必要があります。神への礼拝を日々、新しい心で献げる人は幸いです。アーメン。

毎日デボ ヨハネ4:1-26『IV.礼拝をどのようにささげるべきか』

23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23-24)

4.霊とまことをもってささげる

  今、私たちは礼拝について学んでいます。礼拝は、私たちにとって大変重要であることを学んで来ています。礼拝は、旧約時代、イスラエルの民がいけにえが伴うものとしてささげていたことをレビ記を通して学ぶことができます。レビ記で見れるように礼拝は命かけのもので、命が取り扱われているほど重要なものです。そこには動物の命が人の罪の代わりとなって屠られる場面が次々と登場します。それは決して軽い場面でも、愉快な場面でもありません。それは真剣そのものです。人が犯した罪が動物の命によって代わりに取り扱われているのです。この礼拝に臨む人々は、それぞれが真面目かつ真剣に心から悔い改めながら臨みます。自分の霊を尽くして臨みます。決して形だけのものは神様は好みません(詩篇51:16-17)。

イスラエルの大預言者の一人サムエルも形だけの礼拝、いけにえ、ささげものを神様は喜ばれないことをサウル王とイスラエルの民に警告しました(Iサムエル15:22-23)。サウル王の礼拝は、いけにえの為のいけにえになって、その意味とみことばに生きる従順が欠けていました。その礼拝は神様中心ではなく、自己中心となっていました。動物をささげる意味を理解していませんでした。その礼拝は、ゴリアック的な姿に変わっていました。その礼拝でのいけにえが自分の罪のゆえであり、その罪を告白する為に、遜って、霊とまことをもって臨むべきことを理解していませんでした。

これは今日、私たちの礼拝にも同様に適用される大事なことです。私たちの礼拝には、イエス様の十字架、即ち、私たちの罪の為に身代わりに十字架にかかり、その尊い血を流し、死んで下さり、よみがえられた主のいのちがあります。礼拝は、単に自分の気持ちや願いを満足させる為のものではありません。私たちは常に罪を犯す者ですし、罪がある者です。ですから、礼拝に臨む時、霊とまことをもって心から真剣に臨む姿勢が必要であり、自分を受け入れて下さる主にそのような姿勢でささげるべきです。そして、主は、このような欠けだらけの私たちをイエス様にあって贖い、きよめ、赦し、祝福して下さるのです。主は、主に霊とまことをもって近づく私たちを拒みません。

礼拝は、いのちかけのものです。神様が私たちの贖い、赦し、きよめ、祝福の為に設けて下さったものです。今は動物の血によってではなく、主ご自身の血をもって近づかせて下さいます。主の十字架の前でどうして私たちはそれを無視し、軽んじ、臨むことがあるでしょうか。主は、私たちを喜ぶと同時に真剣です。私たちはこの主を喜びながら、霊とまことをもって真摯に臨むべきではありませんか。アーメン。

毎日デボ ピリピ2:1-11『礼拝の姿勢』

9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)

 礼拝は祝福です。神様との出会いの場です。主から贖われ、赦され、きよめられる場です。主から癒される場です。主に教えられる場です。同時に、自分を主にささげる場です。なんとこんな罪人が神に受け入れられる場です。主の恵みと慈しみが溢れる場です。その場は誰によっても妨害されてはなりません。誰によっても汚されてはいけません。誰によっても侮られてはなりません。なぜなら、万軍の神、全知全能の神、聖なる神、私たちの創造主、私たちの救い主が臨在するところだからです。そこには、誰よりも偉大で、誰よりも恐れるべきお方、主が臨在する場です。いくら偉大な大統領や王様であってもこのお方に比べることはできません。

では、私たちは、神様の御前に出る時、どんな姿勢で礼拝をささげるべきでしょうか。現代の人々の姿はまちまちです。教会によってもまちまちです。ある教会や人は、非常にキャジュアル的な姿で礼拝に臨みます。ある人はジーパンやジャージの姿で来ます。ある教会は、素晴らしい神様に出会うから男性は背広、女性は正装の姿だけと定めています。ある人は、コーヒーやジュースを持って礼拝堂に入ります。礼拝中飲んだりする人もいます。ある教会は、お茶やお水だけに限定する所もあります。しかし、礼拝中、飲むのは制限したりします。ある人は、居眠りします。習慣的に居眠りします。ある人はしっかり目を覚ましてみことばに集中して聞きます。ある人は習慣的に遅れます。ある人は奉仕が無くても30分前から来ます。ある人はひざや腕を組んで聞きます。椅子にもたれたりします。ある人は立って聞きます。ある人は跪いて聞き、祈ります。これ以外にたくさんの姿があります。

では、私たちは何を基準に主の御前に出るべきでしょうか。その答えは、大きく3つあります。一つは、教会が定めた姿があります(マタイ16:19)。二つ目は、謙遜な姿勢です(11、節)。3つ目は、最上の姿です(創世記4:4)。私たちはそれぞれ所属して教会が定めた姿があります。教会は律法的に強いてはならないですが、主の御前に出る姿勢はある程度決めています。私たちは所属している教会の方針に従い、心から主をあがめることが大事です。また、常に主の御前に謙遜な姿勢を持つことが大事です。人でも目上の人や偉い人の前に偉そうな態度を取る人はいません。ましてや王の王、主の主である方の御前で礼拝をささげる姿が謙遜な態度でないのは神様がどんなお方なのかをあまり分かってない証拠となります。本当に神様を恐れる人は、御前で謙遜になります。最後に、主を恐れる人は、自分を最上のものとして整えて礼拝をささげます。誰も王様に普段着で出て行く人はいません。最上の姿で出て行きます。もちろん、神の御前で高い服や高価な服を着る必要はありません。ただ、自分の姿が最上の姿で出て行く姿か、ということです。それは自分と神様が判断することです。

偉大な主、聖なる主、私たちを愛してやまない神に心から感謝し、恐れをもって最上の姿勢と態度で礼拝に臨む者は幸いです。アーメン。

毎日デボ Iコリント11:23-32『礼拝―まとめ』

24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」 (1コリント11:24-25)

 今まで私たちは礼拝について学んで来ましたが、皆さんにとって礼拝は何か整理ができたでしょうか。まだ、礼拝を理解していないならば、是非もう一度きちんと礼拝について学んで下さい。礼拝は、創造主なる神様に対する被造物の当然の行為であり、特権です。礼拝は、神様からの恵みです。というのは、神様が臨在し、私たちを祝福して下さるからです。礼拝を通して私たちは更に神の臨在を経験し、神のみことばを学び、神のみこころを知り、罪が贖われ、赦され、きよめられます。そして、神様の約束に更に近づくことができます。それも毎回です。

 礼拝には、神様側から示された要素が大きく二つあります。一つは、神のみことばです。もう一つは、イエス・キリストの血です。みことばは神様の祝福とのろいの契約です。このことを理解する為にモーセの旧約時代に遡ることができます。神様は、イスラエルの民に、聖なる神の聖なる民として生きる指針、即ち、十戒を始めとする律法を与えて下さいました(出エ20章)。このみことばの律法に従って生きていけば彼らは必ず祝福されるはずでした(申命記28:1-14、ヨシュア1:1-9)。

 しかし、残念ながら人の本質はそうではありませんでした(エレミヤ17:9)。人はおきて破りの者で、神様のみことばをアダムとエバ以来悉く破り、罪を犯し続けました。神様の祝福の約束、即ち、その契約は結局悉く破られ、彼らは神様の臨在と祝福を失ってしまいました。結局、彼らは罪のゆえに神様に近づくことすらできませんでした。そのような人間を再び救う為に神様は贖いの道、きよめの道を設けて、人々が神様に、神様が人々に来れるようにして下さいました。それがいけにえによる礼拝だったのです(レビ記書全体)。即ち、旧約時代において、神の祝福の約束を失った民の為にいけにえによる礼拝が設けられ、動物の血が人の身代わりに流され、人の罪は贖われ、赦され、きよめられ、再び神様に近づくことができ、その祝福の約束を回復することができたのです。

 即ち、いけにえによる礼拝は、人を神様に近づかせ、再びその祝福の契約に預かるものとする仲裁の役割もしたのです。それを今やイエス様がご自身の十字架の死と復活をもって一度、全てを成し遂げて下さいました。私たちは毎日どれほど多くの罪を犯す者か自分でも分からない存在です。何もしなくてもお風呂に入る必要があるように、一日中何もしなくても私たちは罪人です。ですから、礼拝が、贖いの礼拝が必要です。神の赦し、癒し、きよめ、祝福が必要です。いけにえがイスラエルの民の為の恵みであり、ギフトだったように、私たちの礼拝は、自分の為に神から与えられた恵みであり、ギフトです。それは私たちのいのちと祝福と癒しと赦しに関わる大事なものです。

 礼拝に対するあなたの位置づけはどこにありますか。礼拝を失うことがないよう祈り、慕い求めましょう。主があなたの礼拝を豊かに祝福して下さいますように。アーメン。

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